東大を「首席」で卒業し、その後、財務省から弁護士へと転身し話題となった女性がいる。
コメンテーターとしても活躍する彼女は、現在、某国立大学の特任教授である。
地方出身者が東大に合格するまでの受験術を記した著書には、眠気を覚ますために氷水をいれたバケツに足を入れたまま勉強したことや、勉強のし過ぎで幻覚をみたことなど、壮絶な勉強ぶりが記されていて、読む者に「東大に入るにはここまでやる必要があるのか」「こうした努力が東大首席につながるのだな」といった驚きや納得を与える一方で、自分が同じことをすることは到底無理だという、諦めにも似た感情を抱かせる。
さて、これだけの実績を上げているのだから、その後の人生もさぞ順風満帆で、誰もが羨むものだろうと思うのだが、経歴を見ると意外な事実に気づく。確かに財務省や弁護士といった「エリート職」を経験しているのだが、数年で退職しているものが多いのだ。何があったのだろうか。
実は、本人が著書やインタビュー等でその理由を明らかにしている。
それによれば、「答のない・自ら答を見つけなければならない問」に対処できなかったことが大きな要因だという。財務省でも弁護士事務所でも、言われたことは効率的に処理できていたが、反面、前例のないこと、自分の判断・対応が求められることに対しては満足に対応できなかったため、期待に応えられずに叱責を受けたり、無視されることが多く、一人職場の隅で泣いたりしていたことが率直に語られている。こうしたことが繰り返された挙句、自身で「<元>が並ぶ経歴は挫折の歴史」だと語る(自虐)までに至っている(https://gendai.media/articles/-/93298)。
輝かしい経歴とは逆の、恥だと感じている実態を赤裸々に語った勇気と潔さには心底敬服するし、お陰で、知識を偏重し教えられたことをただ覚えるだけでは、実社会では通用しないと良く言われるが、これは本当なのだ、と誰もが納得できよう。
しかし、ここで問題にしたいのは別のことだ。
我が国の教育は文科省が定める学習指導要領に従って行われている。そこでは「生きる力」の育成をメインテーマにしており、それは「問題解決能力」だとする。
ところが、それと対極の意識・姿勢のままで、我が国教育機関の最高峰である東大に入り、修了・卒業できる挙句に、首席の座を得ることもできるということを問いたいのだ。
そもそも知識偏重から抜け出し「自ら問題を発見し、それを解決する能力」を育成することは学校教育が小学校段階から一貫して目指してきたことであり、大学はその完成を見る場であるはずだ。
学校教育法も高校までは「教育を施す」とのみ規定しているのに対し、大学では「広く知識を授ける」ことに加え、「知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」としている。それがこの有様だ。
一体、大学での教育(カリキュラム及びディプロマポリシー)は何だったのか。
彼女の告白は、大学では自身の考えを深め、纏めさせたりすることもなく、教員の述べたことをただ正確に記憶し、記録(「大容量のハードディスクに依存」))してさえいれば良い成績(首席すら)が収められるということを示す何よりの証拠である。
大学ランキングにおける「教育の充実度」でトップクラスの評点を得ている東大でさえこの有様であるならば、他大学の状況は追って知るべしだろう。
もし、彼女に高校までの姿勢(そこでも「問題解決能力」はメインテーマであり続けてはいたのだが)を続けていては大学での教育は成り立たないことを理解・認識させていたなら、「CPUの開発」は早々に行われており、就職後に外部から与えられる評価・印象も大きく変わっていただろう。
それが一切ないまま修了・卒業した挙句、首席まで取ることができたことがその後の「挫折」を招いたと言える。その意味では彼女は「犠牲者」とも言えるのであり、同時に、問題解決能力の育成という題目が画餅に過ぎないということを身をもって示している。
これからの社会を担う人材の育成において「問題解決能力」が不可欠だと真剣に考えるのであれば、当の東大はもとより、他大学もこれを他山の石として、教育内容・方法の改善に努めるべきではないか(また、高校までの教育も抜本的に見直す必要があろう)。
文科省も3ポリシーの重要性を訴え、その状況を把握するとしながら、実際には作成の有無と言う形式を気にするばかりだ。そうではなく、実質的な中身を大学に対して問うべきであろう。
「問題を発見し、それを解決する」能力の実践として、彼女の告白が意味するものを真摯に受け止め、それに応えるべきことを訴える次第だ。

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