(出題根拠であるアドミッション・ポリシーを見る)
このように大学入試問題実際に比較してみると、形式面だけでも様々な差があることが明らかになった。なるほど、大学別問題集が必要となるわけだ。
しかし、このような差は何を根拠に生じるのだろうか。冒頭に述べた入試の意義・必要性を踏まえれば、これは各大学での教育(・研究)の違いを反映したものであるはずだろう。ところが、実情は全く異なる。
各大学は法令の規定(学校教育法施行規則第165条の2及び同第172条の2)により、「卒業又は修了の認定に関する方針」であるディプロマ・ポリシー(以下、DPという)、「教育課程の編成及び実施に関する方針」であるカリキュラム・ポリシー(以下、CPという。)、「入学者の受入に関する方針」であるアドミッション・ポリシー(以下、APという。)を制定し、公表することになっている。
これら3者は、教育機関たる大学がどのような知識・能力をもった人材を輩出することを目指しているか(DP)、その実現のためにどのような教育課程(カリキュラム)を編成・実施することとしているか(CP)、それらを理解・修得できる人材を入学させるためにどのような基準・方針で臨むか(AP)を明らかにするものとして相互に関連する。
即ち、入試に最も関係が深いAPも、それ単独で成立するのではなく、文科省が審議会に提出した資料で述べているように「ディプロマ・ポリシー及びカリキュラム・ポリシーを踏まえ」て策定されるものでなければならない。(また、単に「受け入れる学生に求める学習成果を示す」だけでなく、「入学後にどのような能力をどのようにして身につけられる学生を求めているか」を具体的に示したものでもある必要がある、とされてもいる。)
この点を踏まえれば、APとは本来、CP・DPに応じて学部ごとに策定され、入試もそれに基づいて学部ごとに独自の問題で実施されるべきであろう。
ところが、多くの国立大学では全学共通のAPしか策定・公表されていない。このためか、入試問題も文系理系での科目差等はあるにしろ、国語や英語はほぼ全学部共通の問題となっている。この理由を、教養課程を置く大学では、入学後に全学生が共通のカリキュラムで教育を受けるから、とするのかもしれないが、そうであれば、学生募集・入学試験を学部単位で実施する意味はどこにあるのか。矛盾していると言わざるを得ない。いわんや、教養課程を置かない大学においておやは、だ。
このように、APについては策定の在り方から問題とすべき点はあるが、ここでは取り敢えず実態を踏まえ、大学全体のAPとは、各学部のAPの共通する部分を反映したものだとして、検討を進める。
早速、上記各大学の「全学」APを見てみよう。
東京大学では、APを「東京大学の使命と教育理念」「期待する学生像」「入学試験の基本方針」の3部で構成しており、その中の「入学試験の基本方針」では
① 試験問題の内容は、高等学校教育段階において達成を目指すものと軌を一にしています、
② 入学後の教養教育に十分に対応できる資質として、文系・理系にとわれず幅広く学習し、国際的な広い視野
と外国語によるコミュニケーション能力を備えていることを重視します。そのため、文科各類の受験者にも理
系の基礎知識や能力を求め、理科各類の受験者にも文系の基礎知識や能力を求めるほか、いずれの各類の受験
者についても、外国語の基礎的な能力を要求します、
③ 知識を詰め込むことよりも、持っている知識を関連づけて解を説く能力の高さを重視します
を学部入学試験の三方針として明記している。また、これらに加え、関連情報として別に「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」として学生が身に着けておいて欲しいと望む能力を科目別に記載している。
なお、ここで気を付けたいのは「入学試験の基本方針」冒頭で「東京大学の入試問題は,どの問題であれ,高等学校できちんと学び,身につけた力をもってすれば,決してハードルの高いものではありません」とあるのだが、これは高等学校学習指導要領の範囲・水準を(はるかに)超えた力であることだ。
学習指導要領とは教師が全ての高校生が身につけさせるべき最低水準の教育内容を示したものであることを踏まえれば、それも当然のことではあるが、学校の授業をしっかりと受けていれば解ける問題であるかのような誤解を与えかねない表現(「基礎知識を求める」や「基礎的な能力を要求」)になっていることに注意が必要だろう。出題しているのは奇問ではなく、良問だということをアピールしたいためであろうか。いずれにしろ、難問であることは認識しているようで、「基本方針」の①では「高等学校教育段階において達成を目指すもの」とは「軌を一にして」いることだけを述べ、程度・水準は高等学校段階におけるそれとは異なることを言外で示している。
また、末尾では「志望する皆さんが(略)高等学校までの教育からできるだけ多くのことを,できるだけ深く学ぶよう期待します」として、同様の趣旨を別の言葉で表している。これらは正直な姿勢だと言えよう。
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京都大学はAPの中で「入学を希望する者に求めるのは、以下に掲げる基礎的な学力」だとして、
① 高等学校の教育課程の教科・科目の修得により培われる分析力と俯瞰力、
② 高等学校の教育課程の教科・科目で修得した内容を活用する力、
③ 外国語運用能力を含むコミュニケーションに関する力、
の3点を掲げている。
また、「京都大学の学力検査の出題方針について」として、科目別に「高等学校段階までにどのような学習能力と学習態度を培うことを求めているのか,また,そうした能力と態度をどのような基準により評価しようとしているのかを示」している。東大とは異なり、学習指導要領に基づく「高等学校の教育課程の教科・科目」で「修得」した基礎的な学力を求めているとしている。
高等学校学習指導要領においては、科目を履修した結果、その成果が満足できると認められれば、単位の修得が認められることとなっている。満足できる水準にあるとの判断の下、多くの生徒が単位を修得した(基礎的)学力で解ける問題としてあれほどの難問が出されるのは納得がいかないのではないか。
さて、両大学のAPがA4一枚程度の分量であるのに比して、大阪大学、名古屋大学の全学APはわずか数行の簡単なものである。
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大阪大学は、
教育目標に定める人材を育成するため、高等学校等における学習を通して、確かな基礎学力及び主体的に学
ぶ態度を有し、自ら課題を発見し探求しようとする意欲に溢れる人を受け入れます。
このような学生を適正に選抜するために、多様な観点からの評価を行います。
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また、名古屋大学は、
未来の「勇気ある知識人」を目指す人を国内外に求めます。各学部・学科の学術分野の特徴に基づき、基礎
的な学力とそれを活用する能力、さらにそれを発展させようとする意欲や態度を適正に評価して選抜する入試を
実施します。
これだけだ。東京大学や京都大学の後でも物足りなさを感じるが、それ以前に、この程度の内容を基に自分の将来を左右しかねない入試が実施されていると知った受験生は驚き、呆れ、怒るのではないか。特に、入試での成績が合否判定でのほぼ唯一の判断材料とされている実態がある中で、これは見過ごせない。
なお、両大学はともに学部別にもAPを策定・公表している。ただ、その内容も抽象的・簡潔なものに過ぎない。例えば、国語で他の学部とは別の問題を出題している大阪大学文学部のAPを見てみると、
【求める人材像】 文学部は、古今東西の思想、言語、歴史、文学、芸術の分析的かつ総合的な探求を通じて対
象を本質的に理解し、そこで得られた知見をもって現代社会の諸問題の解決に積極的に取り組む人材の育成を目
的としています。そのため、本学部では、大阪大学のアドミッション・ポリシーをもとに、次のような資質を備
えた学生を求めています。
(1) 高等学校等で履修する主要教科の基本的な知識。
(2) 日本語および外国語の文章を正確に読解する能力。
(3) 論理的に思考し、自分の考えを口頭および文章で明晰に表現する能力。
(4) 人文学についての基本的な理解と学問探究への強い意欲。
【入学者選抜の基本方針】 本学部の入学試験では、上記の学生を多様な評価基準によって選抜するために、一
般選抜、総合型 選抜、私費外国人留学生特別入試を実施します。
【具体的選抜方法と、資質・能力との関係】 一般選抜では、(1)、(2) を重視し、大学入学共通テストで
国語、地理歴史、公民、理科、数学、 外国語を、個別学力検査では地理歴史または数学、外国語、国語を、そ
れぞれ課します。(3)のうち、 論理的思考力および文章表現力については、個別学力検査で評価します。
これだけしか記述がない。これと共通問題を課している他学部のものとを比較しても大差がなく、ここから別の問題を課す必要性・意義を見出すことは到底できない。
このように各大学は入学試験を重要と認識し、それに真摯に取り組んでいることをAPで訴えてはいるものの、内容の大半は「学生に求める」事柄が占めており、なぜその形式・水準が必要なのか、そしてそれをどう生かすのか、という肝心な事項はほとんど述べられていない。
工場に譬えるのは不適当かもしれないが、これではどういう製品を作るのかを明らかにせずに、用いる材料に対してのみどんな品質が必要かを詳細に述べているようなものだ。一般社会では通るはずがないこのような要求が、教育機関である大学ではずっと当然のように行われているということのおかしさをしっかり知る必要がある。
(大学内での入試の位置づけ)
各大学が入試問題を作成する上での指針とも言うべきAPがCPやDPと無関係に策定されており、また学生に望む学力等を一方的に記述しているだけのものであるというのは勝手な推測・結論ではない。それを裏付ける発言を当の大学人が行ってきた。
90年代後半に、大学入学者の学力が大きく低下しているとか、基本的な科目も履修せずにいる者が少なくないと訴える声が大学教員の中から挙がった。その根拠として
「医学部に進学しながら生物も履修していない」
「専門を学ぶ上で数学は不可欠だが、その基本的な内容も習得せずに経済学部に進学している者が少なくない」
こと等が挙げられ、また、私立最難関大学経済学部の1年生に小学校程度の分数の問題を解かせた結果を纏めた「分数ができない大学生」が出版され、ベストセラーとなった。その影響は大きく、高等学校以下の教育に対する大きな不信と危機感を国民に与えたとして、文科相が「緊急アピール」を発表するにまで至った。
これらの主張は一見もっともらしいものだったが、実は大きな矛盾を含んでいる。
なぜなら、大学に入学した新入生は皆、その大学が課した独自の入試を経ているからである。著者たちが批判しているのは自分達が入学を認めた者であることを踏まえれば、無責任に声を上げる前に、そのような入学者を生んでいる試験の不備を認め、それを改めるべきだろう。具体的には、医学部では生物を、経済学部は分数等の小学校程度の算数を入試で課せば良いだけだ。それらが無い試験を実施して合格と認めておきながら、入学者を批判するなど言語道断である。
もし、「分数のできない大学生・経済学部生」という主張が許されるとすれば、それは批判としてではなく、
「本学(部)は教育機関として、全ての学生には数学を含め経済学に必要な教育を実施し、立派な経済学士に育成し卒業させます。学生に求めるのは経済学への興味・関心・意欲であって、数学能力の有無ではありません。このため、本学(部)には、入学時では「分数のできない大学生(新入生)」が散見されるのですが、これは教育機関として誇るべきことだと認識していますし、学生もそれを信頼している証です。」
という論理しかありえまい。
ここから大学が教育という「教え、育てる」ことを如何に軽視しているか、が垣間見られよう。その肝心なことが考慮されることもないまま、入口の入試ばかりが関心の対象となり、話題になっている現状こそ問われなければならない。このことを強く認識する必要がある。
(批判に隠れていること)
つまり、大学人による学力低下批判は、大学の怠慢が生み出したと言えるのである。ところが、このようにCPやAPを踏まえた入試が実施されずにいながら、入学生に対して大学内から一方的に批判の声が挙がるのはなぜか。それは、大学内において入試が占める位置づけが大きく影響している。
今まで見てきたように、入試は入学後の教育の内容・水準とは別にそれ単独で成立しているわけだが、これは即ち、入学後の専門教育を担当する教員は入試に関心もなく、関与もしていないということを表す。
大学内では専門分野の教育・研究を行うのが教員のあるべき姿で、高校教育の確認・点検のような入試問題業務はそれらができない者が行うものだという区別(差別とさえ言える)意識が未だに根強い。
ある専門教育担当教員が入試担当業務担当に指名されたことに対して、作問委員内で「自分のような者が入試業務に携わるのはもったいない」と発言し問題となったような例は今日でも耳にする。結局、専門教育を行う教員は入試業務を自分には関係がない、自分が関わるべきではない(価値がない)ものと見なしており、求める学力等についての情報も要望も出さない。このため入試問題を作成する基準・根拠が得られない。
入試がAPやCPと関連がないことを指摘してきたが、関連がないのではなく、関連を付けられずにいるというのが実情なのだ。専門教育担当教員にとって関心があるのは、どんな問題が出題されているかではなく、どんな問題であろうと、それに他の受験生より「高い点をとった、優秀な」学生が入学したという事実のみなのである。だから、優秀なはずの学生が、生物も履修していない、分数も解けないと知って驚き、不平を漏らすのだ。
※ このことは例えば「東京大学新聞」が受験生特集号を発行し、その中で「東大教員からのエール」として、入
試を担当している理事・副学長と、入試科目に近い分野を専門とする教員からの受験生に向けたメッセージを掲
載しているが、その内容は各教科・専門分野の意義・魅力・面白さを敷衍するものばかりで、それを学ぶのに何
が必要か、どういう学力・意欲を求めているかといったことには誰も触れていないことからも明らかだ。
実は、このような新入生がいる状況は以前から生じていたのだが、これまでは各大学は教養部での一般教育科目等を通して入学時に不足していた教科知識等を補完・発展させており、それがその後の専門教育に効果を発揮していたため、大きな注目を浴びることはなかった。
事実、柴田洋三郎・福岡県立大学長が九州大学在職中に行った追跡調査で「大学における学生の学習成果を規定するものは、一定の学力水準さえあれば選抜成績や受験学力の差ではなく、入学初期に大学での教育により修得された学習能力である」ことを明らかにしている(「名ばかり大学生」光文社新書)。専門教育担当教員はその有効性をただ知らずにいたのだ。
その状況・認識に大きな変化をもたらしたのが、91年の大学設置基準の大綱化だ。教育科目の区分が廃止されたことで、多くの大学は一般教育科目の削減を行うとともに、これらを担当する教員が所属する教養部を廃止し、新たに各学部に所属させることとなった。
これには、専門教育を前倒しで実施したいという専門教育担当教員側の意向に併せて、教養部から学部所属になることで専門教育を担当する教員と同等に扱われたい、という入試問題・一般教育担当教員の意識・要望も大きく働いていた面もあるが、このことが専門教育に与えた影響は非常に大きかった。
先述の通り、従来は「優秀な」学生に教養部が専門教育の基礎を教授していたのに、それがなくなったことで、必要な教科を学ばず、基礎的な学力もない学生がそのまま専門教育を学ぶことになったのだから当然だ。
「学力低下」批判が教養部廃止から数年経った時点で急速に高まった背景にはこういう事情もある。果たして、その後、教養部・課程を復活する大学が増えた。ただし、それらを専門教育担当教員が担うことにはなっていない。
入試も同様だ。大学内の組織・体制が如何に固いものかを伺い知ることができよう。文科省が大学改革の柱の一つとして、弾力的・柔軟な組織づくりを訴えてきているのも、それで何を達成するのかが不明だという根本的問題があることはさておき、指摘自体は当然のことなのだ。
(なぜその出題内容・形式なのか)
では、入試が入学後の教育と関係がないのであれば、冒頭でみた、大学間の入試問題の違いはなぜ、何のために生じているのだろう。
東大で、与えられた英文の要約を求めたり、絵に描かれた状況を英語で説明させたりしていること、京大では漢文を出題せず、英語は英文和訳と日本の大学で最も難しいとされる英作文のみとしていること、名古屋大が漢文で全体の主旨を150語でまとめさせていること、と言った独自の問題が出題されている。
これらは、APやCPと無関係である以上に、何を根拠に、どんな効果を意図したものなのだろうか。
巷間、東京大学の入試問題を扱った「東大入試で論理力を鍛える」「東大のディープな日本史」といった書籍が数多く並べられている。いずれも東大の入試問題は良問揃いだと紹介し、出題の意図も推察した挙句、「さすが東大!」と賞賛している。
このような評価が妥当か否かは何度も述べているように、入学後の教育内容との関係・その有効性から判定されるべきである。
ところがこれらの中で、東京大学で行われる教育内容を踏まえた上で、当該入試の意義・効果、他大学の入試問題との違い・特色について言及したものは皆無だ。これでは志望大学の如何を問わず、全受験生を対象に同一問題が出題されている予備校の模擬試験を評価しているのと大差ない。
その予備校による全国統一の模擬試験で、大学ごとの合格率がかなり正確に判定されている。実際には大学ごとに別の形式・内容の問題が出題されているにも関わらず、である。ここから明らかなように、独自の出題に根拠や期待する効果などないに等しいとも言える。
結局、これらは、入試問題担当教員が出題能力を発揮することで、専門教育担当教員が誇る研究業績に匹敵するものとして訴え、学内での存在意義を証明する手段として機能しているに過ぎない。
換言すれば、独自の出題は受験生のためでも、大学のためでもなく、出題者のためであるとさえ言える。この点は入学者選抜の主要な判断資料だとされていながら、その採点・判定基準が一切明らかでないことからも明白だ。ところが、これらが公平・公正な試験だと認知されているのだから入試信仰極まれり、だ。
このような状況も、赤本や上述のような図書が大学内の入試問題担当・教育科目担当教員の評価につながっているのであれば、その限りでの意義はあるとは言えるだろうが、それよりも、受験生の立場に立った見直しと、固定化した大学内の体制・評価基準の改革こそが問われるべきことは言うまでもない。

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