【成果なき政策】
我が国では小学校から大学に至るまで、「教育改革」の名の下に様々な施策・取組が実施され続けており、それが報道されるのが日常的な光景になっているとさえ言える。これらの施策は教育に強い関心を持ち、その充実に期待を寄せる国民の声に応えるものであるとして次々と立案され導入されているのだが、果たしてその効果は、と見ると甚だ覚束ない。
小中高校でいじめや不登校が減る兆しは見えないし、子供たちに英語力はもとより、学校教育を通じてメインテーマである「生きる力」がどれだけ身についているのかも全く不明だ。大学も同様で、情報公開や産学連携の推進、若手研究者の雇用促進、学長のリーダーシップの確立等が叫ばれ続けて久しい。
このように国民の関心・期待にほとんど応えられずにいるにも関わらず、改革への掛け声が減ることはなく、むしろ増える傾向にある。しかも、現場は、これらを実施する上で必要な経費や人員が措置されることがないまま、従来からの取り組みを続けた上で、新たな改革を速やかに実施するよう求められて(強いられて)いる。
これでは教員や教育委員会等の担当者が成果など上げることはできないのももっともだが、同時に一層深刻な事態をも生んでいる。
情報も資源(時間・人・金)も不十分な中で取り組みを次々と実施する(せざるを得ない)ために、努力を続けるほど、無理が重なり、精神的・肉体的な負担が増す。結果、重責の中で気力も萎え、疲労感・徒労感ばかりが募っていくことになる。
こうして子供たちの教育を行う場が「ブラック」と称されるようになっているのだ。
その一方で、国はこうした事情を無視?して、十分な成果が上がらないことを「現場の取り組みが十分でない、取り組みが行われはいるがまだ問題が残っている」と捉えた挙げ句に、さらなる改善が必要だと判断して新たな施策を追加し、これへの対応を求めている。
教育改革の日常化とはこうしたことが繰り返されている状態を指しているに過ぎない。
【成果が上がらない原因】
ここから教育政策の問題、特に成果が上がらない理由が、実施に必要な資源等が不足していることにあると結論づけることは簡単だ。財政不如意の中では、その改善に向けた対応が難しいことは間違いないが、これが理由ならば、目指す途は明らかである。
ところが、真の要因は他にある。それが、情報や資源が不足しているという目につきやすい実態に隠れて、注目されずに放置されているのだ。
そもそも、教育政策として立案・導入されるものの中には資源をいくら投入しようとも、成果が上がる可能性がないものが少なくない。つまり、当初から「無駄・骨折り損」となることが明らかなものが多いのである。
これは教育経済学者を始めとする多くの専門家が、様々な教育施策・事業を対象に国内外で実証研究を行った結果として明らかにしている。
加えて、彼ら/彼女らは、このような施策が続いて立案・実施されるのは、我が国の教育政策が実証やデータ等、客観的な根拠に基づかず、また、それらがどのような成果を、いつまでに達成する見込みでいるか等が全く明らかにされない、言わば政策担当者の(理想という名の)単なる思い付き・願望に過ぎないものに基づいているからだ、と指摘してもいる。
これらの根拠・懸念が数多くあるにも関わらず、最近の大学入試共通テストに関する議論を例にとってみても分かるように、それらを踏まえた実証が事前に行われることはなく、データや証拠を欠いたまま、従来のセンター試験では不十分だとの判断を一方的に下した挙句に、共通テスト導入を結論づけていた。
このように、周囲の意見・実証結果等を考慮せず、独自(勝手)に施策を立案・決定するということが続いているのは奇異なほどである。
(多くの政策は決定の前には審議会等において有識者が慎重な検討を行っている。その意味では周囲の意見を踏まえていると言えるのだろうが、その結論がなぜ、従来の政策の検証や効果・外部の声を無視し、当該政策の長所ばかりを列挙した上で下されたものになるのかは甚だ疑問だ。
なお、この疑問に関連して、このような過程を経ていることを重く見て、そうして得られた結論は正しい(はず)という前提に立ったうえで、それに基づいた様々な改革がなぜ進まないのか、を考え、別の稿(「なぜ教育改革は進まないのか」)で纏めてみた。)
なぜ、このようなことが続くのか。何がそれを進めているのか。
この根源的な問いに対して、従来から教育政策のもつ様々な問題点を指摘し続けている刈谷・オックスフォード大学教授は、「追いついた近代 消えた近代(岩波書店)」で、我が国では
「キャッチアップ型として認定され続けた<近代>像(が)終焉を迎えたという認識
をもつことで…自己認識(=再帰性)の基点を失(ったため)、エセ演繹型思考から
抜け出せない」
でいるからだと説いている。特に教育分野においてはこのことが
「<その後>の経済(成長)に資することを暗黙の前提としてきた教育改革が、政策
目標を曖昧化し、目標達成のための具体的な手段を提供できない政策をつくり続けて
きた」
と結論づけている。まさに本質を突いた指摘だろう。
【声を上げよう】
このような研究者や専門家による指摘や分析は、いずれも教育政策が抱える問題やそれを生じさせる背景を明らかにする上で、大変説得力を持ち、多くの示唆に富むものではあるが、残念ながら今までは教育政策を効果あるもの、意義あるものへ転換する力にはなり得ていない。「そのような主張もある」という程度の認識・扱いに止まっているのが実情だ。
これをホンダ創業者である本田宗一郎氏の言葉を借りて表現すれば、貴重・有益な指摘が「行動なき理念」として「無価値」なものに止まっていることになる。
従って、専門家の主張・指摘を「価値ある」ものにするには「行動」につなげていくことが必要だ。そのためには、実際に教育を受けている生徒や学生、養育する子女に教育を受けさせている保護者、教育改革に実際に取り組んでいる(取り組まされている)教職員等、直接の関係者(ステークホルダー)が声を上げていくことが欠かせない。
こうした対応が有効であることは、大学入学共通テストへの民間試験導入に対して、当事者である高校生達による具体・直接的な反対表明・行動が導入延期をもたらした大きな要因となったことを想起すれば容易に理解されよう。
【保護者にはその権利がある】
「声を上げる」と言っても、件の高校生達のように文科省や教育委員会に直接意見をぶつけるというのは容易なことではないだろう。だからと言って、これまでのように何もせず「思考停止」していて良いということにはならない。
そもそも我が国においては、財政支出に占める教育関係経費の割合が他国と比較して低水準にあり、これを家計の教育関係支出が補っている。少子化にも拘わらず、教育に投入する子供一人当たり単価が上昇している上、その支出の多寡と子供の学力との間に強い相関関係があるとの研究成果も明らかになっており、教育支出が増加する傾向に拍車がかかっている(②)。
その中では「全ての児童生徒が身につけるべき基礎的・最低水準」である(はずの)教育の内容を学校外で理解・補習する(しなければならない)ための塾・補習代も大きな比率を占める。
これらが家計に重い負担となっていることは、一夫婦当たりで子供は2.32人いることが理想だとしながら、平均予定子供数は2.01人となっている理由として教育費負担の重さが第一に挙げられているほどだ(国立社会保障・人口問題研究所「出生動向基本調査(2015))。
これだけの支出・負担を行っている(強いられている)以上、それに見合う説明を求める権利があるのは言うまでもない。ところが、多くの保護者は教育のためにこのような多額の負担が強いられていることに納得しているわけでないのに、これを仕方がないと受け入れて(諦めて)いるようだ。これでは今後も家庭の教育負担が減ることなどない。
「声を上げる」ことは、現状が納得できる(すべき)ものなのかを知り、もしこのような負担が理不尽であるならそれを変えていくべきであり、そのために必要なのである。
【教職員も】
同様のことは、現場で改革に直接取り組んでいる教職員にも当てはまる。新たな業務の意義・必要とする根拠・効果を納得しないまま闇雲にそれらに取り組むことは無駄・非効率を生む要因に外ならない。働き方改革が求められている中でもあり、これらを分かりやすい形で明確に示すよう求める必要があるのは当然だ。
また、教員たちは日頃、子どもたちに「問題を発見し、自ら解決する」能力が身につくよう努めているのであって、その前提として自分達が同様の態度・能力をもっていることが求められる。この点からも、彼らは文部科学省や教育委員会からの紋切り型の通知を受け取り、要望された内容を唯々諾々と受け入れ、従うのではなく、その内容や効果等を理解し、疑問・問題点を解消するために具体的な説明を求めたり、質問を行ったりすることが必要なはずだ。
ところがそうした動きが行われていない(ように見える)のは実に不思議である。
新しい政策の目的や内容が全て問題なく理解できているのであれば格別、納得できない事項があるのにそれを表明しない(できずにいる)のであれば問題と言わざるを得ない。
文部科学省や教育委員会と学校との間に上下関係はない。それなのに、一方的(に見える)状況が散見されることを重く見て、このような関係・意識を改め、現場から生の声をもっと上げていく仕組みを構築する(し直す)べきだろう。
【議会の機能不全】
実は、このような声を拾い、それを代弁する役目を担う体制は既に整ってはいる。
教育は将来を担う人材を育成する営みであることから、多額の公費が投入されているだけでなく、家計からも多大な支出が行われている。つまり全国民の負担によって支えられている。これは関連する多くのステークホルダーの理解・同意が得られているということを前提としている。
そしてそれは住民の代表が議会で質疑・確認を行うという制度で担保されていることになっている。これがしっかりと機能している限り施策の内容や効果には納得や満足が得られているはずだ。
ところが、これまでの実際の質問内容をみると、
「××という問題について、どういう認識をもっていて、それを踏まえて、これに
はどう取り組むつもりか(どういう覚悟か)」
「新たな〇〇施策に取り組む意気込みはどうか」
といった意欲・姿勢を問うもの、
「〇〇(施策)で行う△△とはどういうものか」
という個別の内容を確認するもの、
「〇〇(施策)には◇◇の懸念があるがどうか」
「○○ではさらに▽▽も行う必要があるのではないか」
と印象を尋ねたり、私見を述べたりするものが多い。
一見して分かるように、個人的な印象や認識に対する見解を尋ねるものや、新施策に取り組む意気込みを問うようなものばかりだ。他方、当該施策が有効だと主張する理由や、従来の施策の効果についての検証結果、当該結果と新規施策との関係等の具体的根拠やデータに基づく説明を求めるものはほとんどない(③)。この状況は国会でも地方議会でもほぼ同様だ。
この背景には、教育は良いもの・崇高なもの・善なるものであり、教職員の身分や処遇に直接(悪)影響が及ぶものでない限り、それを改革することには皆、基本的に賛成(すべき)の立場にあることや、誰もが教育を受けた経験を持つため新旧施策について自分の経験に基づいた印象や私見を述べることが可能である上、それを行うことで務めを果たしたと満足しがちであるのかもしれない。
また、具体的な数値やエビデンスを厳しく求めることはややもすれば、せっかくの改革に消極的・反対の立場であるかのような印象を与えかねないとの危惧があるため、これを避けたいとの意識も働くのだろう。
しかし、このような質問であれば、回答は当然のことながら
「しっかり取り組みたい」
「…を実施することを考えている(…を実施している)」
「懸念には及ばない」
「成果が上がると期待している」
と言った程度で済む。しかもこれに納得・了解しているため、原案がそのまま承認されることになる。こんなことが繰り返されているのだ。
そして、議会で承認されたという事実は「お墨付き」を得たことに外ならないため、根拠やデータが不明のまま、成果が挙がるかに懸念がある(既に成果が期待できないとの結果が出ている)施策が大手を振って進められていく。現場や保護者にとっては知りたい内容や不安が明らかにならないのに、労力や負担だけが課せられることになる。
これらを踏まえれば、「行動」の第一歩には議会の機能を再興することが重要であると理解できよう。行政のチェック機能が議会の最大の役割の一つであることを踏まえ、もっと核心をついた緊張感ある質疑が行われるべきだ。それには、論点を明確にした、具体的根拠を尋ねる問いが必要となる。
また、質問・指摘をかわそうとする役人特有の技法に惑わされない覚悟・留意も必要だろう。
【質問集の作成】
そこで、その参考に付すため、教育行政や現場の場での知識・経験を踏まえて必要となる質問を纏めてみた。これまで深く追及・確認されずに済まされてきた点に焦点を当てたつもりである。
但し、これらは決して、各施策を否定・批判するためのものではない。むしろ、それらが確実な成果を挙げるように、従来の認識を改め、必要な対応を行うためのきっかけになることを目指している。
まず、並んだ質問だけでも眺めてみて欲しい。今までこんなことが分からないまま「教育改革」が進められていることに驚くことだろう。その実態を知るだけでも改善に向け大きく進んだことになる。
様々な議会の場でこれを利用した質問が行われることを期待したい。その際、あいまいな回答で満足・了解することなく、具体的根拠やデータをしっかりと求めることが肝心だ。
もし、抽象的内容ばかりで満足な回答・説明が得られない場合は、当該施策を見直し、中断・中止するという判断・提案をすることにもなる、と明言することも必要だ。そうすることが「改革」をこれまでのような空想や理念にとどまらせず、着実な成果が上がるものにしていくことになる。
なお、これらの質問は文面通りに行うことが必須なものではない。むしろ、記載した事項・内容・表現等は一般的・汎用的なものであるし、また、不備も多いと思う。
ついては、OSのlinuxのように、各現場の実態・関心を踏まえて皆さんの手で加筆・修正をして頂き、より良いものにして頂ければ幸いだ。
さらに、これらの質問は議会内に止まらず、何よりも教員や保護者を対象にした説明会等、様々な場でも用いることが可能だし、そうすることを望みたい。それこそが「行動」に他ならない。
これが教育政策を関係者が納得し、成果の上がるものとするとともに、保護者が負担する価値があると認めるものにする有効な方策になると信じている。
(注)
① こうした姿勢は、我が国の英語教育の問題を指摘し続けてきた鳥飼・立教大名誉教授をして「英
語教育改革がここまで来てしまったら、どうしようもない。もう英語教育について書くのはやめよ
う、と本気で思った。(「英語教育の危機」)」とまで言わせるほど深刻なものだ。もっとも、文
科省のOBである岡本・政研大教授が、教育政策は現状認識・原因究明・目標設定・手段開発ができ
ておらずマネジメントが失敗していると古巣に対して鋭く警鐘を鳴らしてきた(「日本を滅ぼす教
育論議(講談社現代新書)」)にも関わらず、これにすら何も応えずにいたくらいだから驚くには
当たらないのだが。
② 少子化の中、私立中学校への入学熱が高まっていることなどがそれを表している。他方、貧困家
庭では教育に十分な支出を行えないので、その子供が受ける教育の量・質には制限があり、これが
結局、貧困の再生産につながっているとの格差論からの指摘もあることが教育無償化という政策に
繋がっている。それ自体は、好ましい動きと言えるが、そもそも、全ての子供が身に着けるべき最
低水準の教育が実施されているはずの公的教育を受けるだけでは足りず、学校外での教育を受けね
ば社会的に自立するのに必要な知識・能力が身につかないと認識されているという根本的問題・大
きな矛盾があることは見過ごされたままだ。
③ 例えば、平成30年度通常国会(衆議院文部科学委員会)で学校教育法改正案が議題とされた日の
状況を見ると、7人で100問を超える質問を行っているが、そのうち、施策実施による効果の検証
について尋ねたのは3人で5問程度しかない(他方、法律案とは関係のない、当時の社会問題とさ
れた獣医学部新設に関する質問は倍以上あった)。
これらの中では
「学習効果が得られなければ、やめた方がいいわけじゃないですか」
「…メリットだということで、政府側からも説明があっております。こうした観点で、本当に有効かどうかと
いうのをお示しいただければというふうに思います」
「先にありきではなくて、丁寧な検証を踏まえて今後の方向性を議論するべき」
との発言が行われていながら、これに対していずれも
「これから検証して行きたい」
という程度の回答しか得られていないにも関わらず、それ以上の質疑が行われていない。
法案採決に際して、
「本格的かつ長期的な調査研究や実証研究に基づいた客観的・定量的な検証を行」う
ことが付帯決議に盛り込まれており、検証の重要性についてはっきりと認識されていることは伺わ
れるが、実際の質疑応答を踏まえるとその趨勢には疑問を投げかけざるを得ない。また、効果につ
いて検証すら行われていない施策を現場は実施することとなるのであって、仮に十分な効果が見ら
れないという結果が判明した場合、それまでの時間や労力は無駄になるのではないかという不安・
懸念は何ら解消されていないのである。

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