新教育政策を「発見」から「発明」へ

(宗教のような政策)
 我が国の教育政策は刈谷・オックスフォード大学教授などによって、よく宗教に例えられる。
 具体的な根拠やデータを欠き、「重要だから」という理屈だけで実行に移され、その有効性が決して検証されることがない様は丁度、教組による教義が疑いもなく信者に受け入れられ、それに基づく様々な活動が行われた挙句、その効果が検証されることがないまま、毎回、同じような対応が続けられているのと似ているというわけだ。

 確かに両者に類似点が多いことを踏まえると説得力がある主張だが、教員や保護者を教育政策の信者とみなすことには違和感があろう。最近の共通テストへの反対運動などを見ても分かるように、教育政策を教義のように盲信している訳ではなく、それがおかしいと思う判断力とそれを覆す行動力をもっているからである。

 ところが、政策担当・立案者に目を移すと状況は相当異なってくる。

 根拠も明らかにせず、「正しい・必要だ」という程度の理由で政策を提示し、その実現に必要な資源(ヒト・モノ・カネ)を用意・提供することもないまま全国の関係者に実施を求め、しかもそれがどのような効果をあげたのかを検証しようともしない。
 このようなことは、教祖とまでは言わなくとも、少なくとも通常とは異なる思考・発想の持ち主でなければ行い得ないことだと思われる。

 成る程、我が国では昔から行政は庶民からはかけ離れた「お上の仕事」とされ、自分達との及ばない「優れた」考えもつ官僚=「お役人様」によって担われるべきものと認識されてきた。そこには「教祖」に対するものと同類の意識が見られる。
 ところがその一方で、義務教育制度の下では、教育はほぼ全ての国民が経験する、馴染みのある活動であり、皆、経験を踏まえた独自の見解をもつ。従って、それを担当するに者は国民目線に立つことが求められる。そうでなければ、彼ら/彼女らの意見や批判が理解できず、それを踏まえた改善も覚束ない。これは教祖とは対極にある考え方だ。

 ところが、実際には上述したような行動・要求が行われ続けている。これは何故なのか、その背景にはどんな考えがあるのか。
(※既に刈谷氏の「追いついた近代 消えた近代(岩波書店)」等でこの点について歴史的・学術的な解明も行われているが、ここではそれとは別に、担当者の意識・精神面に焦点を当てた検討を加えてみている。)

 それを検討した結果、一つの仮説にたどり着いた。

(新政策は「発見」)
 即ち、世の中に新しいものを生み出す際の方法としては大きく「発明」と「発見」がある。この二つの区分に従った場合、彼ら、教育政策担当者は、新しい教育政策とは「発見」したものとみなしているのではないか、という事である。
 現下の問題を解決する「理想」の処方箋がどこか別の領域にあり、国民はまだ知らない。それを、担当者が(有識者の力を借りつつ)見つけ出して提示したものが政策であると考えているのではないか。

 こう考えると、一連の行動が整合したものとして見えてくる。
 まず、それ(処方箋)は彼らにとっては正しいことが自明で、不動の真理であることから、わざわざ根拠を示すことや正しさを説明するなどは不要・無駄なことになる。
 また、教育は国民にとって馴染みがあり、多様な意見があるからこそ、逆にそれを改善・改革するには彼らの目線を超えた「理想」に基づく必要があると考える。そして、それは関連する知識・経験を有する専門職である担当者でなければ見つけ出せない。

 また、政策担当者にとって、役目はこのような真理(政策)を発見することであるため、発見した後でそれをどう実行するかは、受け取った方が考えるべきことになる。
 そもそも新政策は「発見」された「真理」であり、人為を超えた存在であるので、関係者がそれを信じ、実施に努めることは当然である。この考えの延長として、実施に必要となる資源があるならばそれも自ら用意すべきだということになる。これらは現在の状況に符合する。

 さらに、真理である新政策はこちらがわざわざ説明するまでもなく、進んで理解され、そのまま受け入れ、実施されるべきものである。そうならない(しない)のは、相手の理解力に問題があり誤解しているか、発見(真理)の価値をなぜか認めようとしないから、ということになるが、後者は自分達の理解を超えているので、対応を忌避しがちになる。これは財政当局との関係に良く表れている。
 青木栄一・東北大学教授の「文部科学省の解剖(東信堂)」では省内の全幹部(課長職以上)にアンケート調査をした結果、「<調整が一般的にいって困難>なアクターは<財務省>であり、手ごわいワントップのフォワードということである」という認識でいることを明らかにしている(同書p13)。要は、こちらの説明が相手にされないと嘆き、逃げているのだ。

(「発見」の疑問) 
 ところで、もし政策が自分達の発見した真理であると考えているのならば、次々と新しい政策を提示しているのは何故なのか、真理であるならば時代を超えて有効なものであるはずではないか、という疑問・批判が生じるかもしれない。

 もっともな指摘だが、これは単純に、「発見」したのは現時点での「真理」であるからではないのか。真理は各政策において、時代や情勢に応じて発見できる場所が異なるのであって、担当者は状況や条件の変化に応じて「新しい」「より良い」真理を見い出そうと努力し続けているのだろう。
(このことは学習指導要領を「社会の変化に応じるため」として約10年ごとに改訂することから明らかだ。
 なお、自然科学分野において、理論や機器の発達に応じて同じ分野で「新しい」発見が行われることとを想起してもこれは理解しやすいのではないか。)

 また、真理である(はず)の政策がなぜ、いずれも十分な効果・成果を挙げずにいたのか、という疑問もあろう。これに対しては、上述の通り、真理であるにもかかわらず、それを進んで理解し、実現しようという気持ちが関係者に足りないと考えているからではないか。
 しかも、これは関係者が対応すべき(責任)事項であるとの思いが強いことから、現状を踏まえて丁寧な説明を行うわけでもなく、資源の供給をするわけでもなく、事態は改善されない。

(改善への高い障壁)
 さて、政策担当者の認識がこのようなものであるなら、今後も、政策に根拠やデータを求めること、実施に必要とされる資源等が十分に準備・提供されることを期待するのは難しいに違いない。
 これを改めるには、(こちらの考え方になるのが通常なのだろうが)新政策は自分達が「発明」する(した)ものであると認識を変えるしかない。そうすれば、政策に対する自らの責任が明らかになり、これを理解してもらうため、説得するための根拠が不可欠となるだろう。また、実際にどの程度有効であったのかを検証することも必須となる。これらこそ、最近の教育政策に欠けていることなのだが、その解消には担当者の意識の変革が必要となるのだから実現への障壁は極めて高い。

 「他人と過去は変えられない」という。その通りであって、ある人・組織の意識を外部から変えるなどという事は不可能に近い。組織改革などが話題になると、職員・構成員の意識改革が必要だ、などと言われることが良くあるが、意識改革を「手段」とするというのは妄言に近い。それはあくまでも結果として生じるモノであり、むしろ目指す「目的」なのである。

 このように手段と目的を取り違えることはよくある。意識改革という「目的」を実現する過程で必要とされるのは、自分達とは逆(反対)の意識すら持っている者の存在を前提としつつ、全員を(取り敢えず)そちらに向かわせる「手段」としての仕組みである。制度や罰則というものはその一環だ。

 これはセクハラ等を例にすれば容易に理解されよう。未だに男性を中心とする、旧来の認識から抜け切れず、職場等における自分の行為がハラスメントに相当すると気づかない者、問題点が理解できないでいる者が跡を絶たないが、それらの者に対して、いくら重要性を説き、意識改革を促しても無駄である。
 表面上、理解した振りをしつつ、内面では「そうは言うけど…」との思いを抱え続けるのは明らかだ。ここで必要なのは本人が理解・納得しているか否かは問題とせず、当該行為をセクハラと認定し、必要に応じて当事者に罰則を科すという仕組み・取り組みを実施することである。それを続けることで、「結果」として彼らの意識が変わって行く。

 これと同じことがここでも求められる。つまり、政策担当者の意識を「発見」から「発明」へと改めるよう安易に求めるだけではなく、現在のような意識での対応を続けていると理解・納得されず、不利益・批判を浴びるという経験を彼らに得させ続ける必要があるのだ。
 既に財務省からは同様の経験(試練)を再三与えられてはいるが、どうもこれは「外部」の声だとして、深刻に扱わないことで自己弁護を図っているように思える。

 ついては、教育政策に関わる全ての関係者の対応が必要である。周囲から絶えず、指摘・批判・疑問が与えられる機会が多いほど彼らの意識を変える上で効果的・効率的であることは言うまでもない。

 それが教育政策をあるべき方向に正していくために今、関係者に求められている具体的行動なのだ。

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