医学教育を担当する課に在籍していた時のことだ。そこでは医療訴訟も担当だった。あってはならないことだが、大学病院での医療ミスが原因だとして訴訟が提起されることはままある。ただ、大学病院での治療や手術は、市中病院でのものとは異なり、高度・最先端のものが施されることが多いので、施術後に患者の容態に重大な変化が生じたり、最悪の場合、死に至ったりすることがあっても、それが「ミス」によるものなのか、予測の範囲を超えた事態として不可避なものだったのか判断は難しいため、裁判が長引くことになる。これがもたらす家族・遺族の苦悩・負担は計り知れない。
一方で、ご遺体を臨床実習に不可欠な解剖のためにご遺族のご厚志で提供頂く献体という制度がある。生前にご本人がその意志を伝えている場合もあるが、大半は患者の死後、ご遺族からの申し出による。
この両極ともいえる対応・事例を整理しているうちにあることに気づいた。
双方の病状や処置・手術内容に大きな差があるわけではなく、不幸にしてともに患者が死亡したにもかかわらず、その後、訴訟に至った場合と献体を頂いた場合とに分かれているケースが散見されることである。
なぜ、このような差が生じるのか。訴状や献体申し出経緯等を調べることで自分なりに理解したのは若干誇張した形での説明にはなるが、次のようなことだ。
上述の通り、大学病院に運ばれる患者は重度であったり、難しい処置・手術が求められるものであったりすることが多い。患者本人はもとより、家族の方々も何とか助けてほしいと藁をもすがる思いで担当医やスタッフの指示に従う。ところが、ここに大きな差が生じる。
一方はある治療を行うに際して、医師が本人や家族に対し
「ご心配でしょう。
確かにこの治療・薬・手術は最新のもので、施術例も数多くなく、また〇〇といった問題が生
じた例もあります。ただ、現時点では最も効果があるとされる治療法であり、〇〇についても×
×といった対応も取ることとしています。ともかく、最善を尽くします。」
と問題点も含めた丁寧な説明を行うとともに、看護スタッフも
「ご不明な点やご心配なことがあればいつでもご連絡ください。」
と常に声をかけている。
他方、別の医師は同様の治療等について、
「今回行うこの治療・薬・手術は最新式・高度なもので、現時点では最も効果があるとされるも
のです。」
とは説明するものの、それに伴う危険性・問題点等については言及がない。心配の余り、家族等がそれを問うても
「難しい内容なので説明しても分からないでしょう。ともかく、専門家である自分達に任せてく
ださい。」
と半ば門前払いだ。それならば、と看護スタッフに尋ねるのだが
「先生に任せておけばいいですからご心配なく。」
と取り合ってくれない。こうして不安と心配を抱えたまま、それでも治るのであればと無理やり納得して手術等を迎える。
果たして、どちらも手術の甲斐なく不幸にして患者が亡くなった。このような場合、遺族が病院や医師に対する感情が真逆になるのは当然だろう。
前者では、
「結果は残念でしたが、あれだけ丁寧にご説明頂き、真剣に治療頂いたこと、看護スタッフも親
身に対応頂いたことに感謝申し上げます。個人もさぞ納得していることと存じます。
ついては先生のような医師の後進が立派に育つように、遺体がお役に立つようであれば故人も
喜んでくれると思います。」
として献体を申し出て頂くことになる。
後者については言うまでもない。
「治療法に対して、様々な疑問や不安があったが、満足な説明がない。それでも<任せろ>と
いうので、我慢して従ったが、結果がこの有様だ。これでは故人も無念だろうし、残された我々
も納得できない。この責任の所在をはっきりさせたい。」
として提訴に至るのだ。
要するに手術の結果ではなく、医療提供者側の日頃の態度・言動が要因となっている。従って、手術数の多寡と訴訟数とには直接的な関係はなく、手術数の割に訴訟が多いという病院も見られた。
ただ、国内で最高の診断・治療が行われる場とされている大学病院が相手なので、ここまで至るのは余程のケースである。それを踏まえた上で訴訟に至った遺族の怒り・悲しみはいかばかりかと思わずにいられなかった。
逆に手術数(かつ術後の死亡数)に比して検体が多いという病院もある。そこでは遺族は悲しみの中にいながら、病院側の応対にせめてもの慰みを見出していたのだろう。
あれから三十年近くが経過した。この間、医療を巡る状況も患者を主体とする方向へと大きく変わったことは間違いない。他方、ドラマや小説では相変わらずの場面が数多く描写されている。これらが受け入れられているのはフィクションだからということに止まらず、同様の場を見聞きし、実際に経験した人がまだ数少なくないからだろう。
文字通り、「命を預かる」病院が患者主体のものとなることを当時から切に願っていたが、この経験が、「命」とまではいかないまでも、子どもたちの貴重な「将来」を左右する教育は彼ら/彼女たちのものとなる(なっている)べきで、本当にそうなっているのかを問い続けなければならないと強く思うようになった。

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