日本大使館員の一等書記官として3年間赴任したマレイシアは、20年以上にわたり政権を担っていたマハティール首相の提唱する「ルックイースト政策」の影響もあって親日的な国であった。
マレー人が6割、中華系が3割、インド人が1割という多民族国家であることから、文化も多様で、日本では望むべくもない様々な経験を重ねることができたのは本当に喜ばしい。
日常業務は主に、日本との留学生交流に関するものだった。日本政府は国費で多くの国から留学生を日本に招聘していたが、マレイシアはそれに加え、政府が独自に日本へ留学生を送るプログラムを設けていた。この、世界に類を見ない制度の運営を含め、マレイシア政府との連絡・調整に従事していた。
このように、日本へ留学する道がマレイシア政府によるものとそれ以外との2つに大きく分かれることから、留学生会も2つあった。一方をALEPS(Alumni Look East Policy Society:東方政策留学生会)と言い、他方をJAGAM(Japan Graduates’Association of Malaysia:日本留学生会)と言う。前者がマレイシア政府による留学生の会で、「ブミプトラ政策」という、マレー人優遇政策の下で政府資金を使って留学する機会を得たマレー人による組織である。後者は主に私費で留学した者達で構成された会だが、経済力が影響するせいだろうか、構成員は中華系が多かった。
会を構成する人種や、日本に留学した際の資金が違うので、両会は対立していそうだが、実際にはとても良好な関係を築いており、会の催しに会員が相互に参加しあったり、合同の会議も数多く開催されたりした。
これはひとえに両会の会長の人柄・リーダーシップによるところが大きい。ALEPSは発足から日が浅く(1988年創立)、その会長は政府プログラムによる留学の第一期生でまだ若く、見た目も爽やかだが、これからの人材という印象を与える。しかし、その行動力・統率力は素晴らしく、すでに自分の会社を経営する一方、会長としても歴史が浅いだけに、まだ流動的でややもするとまとまりに欠けそうになる会を見事に率いている。
一方、JAGAMの会長は、国内の主要な企業グループを率いる重鎮で会長職も長い。しかも、歴史的経緯から日本に対して複雑な感情をもつ者が少なくない中華系社会の中で、日本に対する好意的立場・態度を鮮明にしつつ活動に取り組む姿勢は多くの尊敬を集めていた(しかし、その後、内部抗争に巻き込まれ、反日派によってポストを追われることになったのは、本当に残念だ)。
年齢も、民族も違うこの二人だが、互いに尊敬しあい、緊密な関係にあったことは、留学生担当者としてこの上なく幸運だった。彼らとの会話は、日本への感謝・理解を根底におきながら、率直な思い・意見を自由に語りあうもので、毎回、大変に刺激的で、有益なものだった。
彼らの言動の中でも特に印象強いものがある。それは隣国で東南アジアの留学生会の総会が開催されたときのことだ。開会式では各国の会長が挨拶をするのだが、東南アジアは母国語が多様であるため、共通に理解できる言葉として英語を用いる者が多かった。ところが、マレイシアから参加したJAGAMの会長は、「我々日本に留学した者にとって、共通語は日本語である」との考えから、一人、日本語で挨拶をしたという。開催国の日本大使館幹部でさえ英語で挨拶をしたのに、である。
この話を後で聞いたときは、感動を禁じ得ず、嫌が応にも彼への敬意が増した。サンフランシスコ講和条約で、吉田首相(当時)が行う予定の演説文が英文だと知った白洲次郎が「日本の復興を宣言する場で、占領していた国の言葉を使うとは何事だ!」と言って急遽、日本語に変えさせたという話を思い起こさせた。
その一方で、他の会長同様に英語での挨拶を当然と考えていた自分の考えがの浅さ、国の事業の一端を担う者としての認識の足りなさを思い知らされ、恥じいった。彼の態度を通じて、留学生交流で大事なのは数ではなく、日本のことを考え、日本へ留学したことを誇りに思い、結果、日本との懸け橋になるような人を一人でも多く生んでいくことなのだと思い知らされた。その意味で、彼のような留学生がいたことを喜ぶとともに、こんな留学生が各国にも生まれるなら、留学生政策の意義は計り知れないし、日本のプレゼンスはもっと高まるだろう、それに向けて努めなければ、と思った。
それから20年以上が経過した。今も多くの留学生が日本にやってきているが、果たして彼らにとって日本は留学したことを誇れる国になっているだろうか。二人のような優れた日本留学生がその後もしっかりと生まれているだろうか、
彼らとの交流を経験した者としてそれが頭から離れたことはない。

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