「選ばない意思・権利」の尊重を

 憲法改正のための国民投票を視野に入れ、選挙権が18歳以上に与えられたことで有権者数が増加した一方で、投票率は相変わらず上がらないままだ。この原因を政治的無関心層の存在に求め、特に若者にそれが多いことを問題視する意見が往々に見られるが安易な主張と言う他ない。意識調査の結果などをみると、彼ら/彼女らの政治的関心は高く、その比率は他の世代と遜色ないことが明らかだからだ。

 では、なぜ投票に行かない人が多いのだろう。政治的無関心以外にその原因を求めるのは一見、難しそうに見えるが、実はそんなことはない。これを卑近な例で説明してみよう。

 ある会社がある。そこでは、皆が昼には空腹を抱え、近くの提携食堂に向かう。ところが、実はそこのメニューには多くの者が不満を抱えている。数が少なく、自分の食べたいものが選べない。味も量も納得できるものではないが、我慢するしかない。改善要望を出してはいるが、聞き入れられずにいる。

 近所には他に飲食店がないわけではない。しかし、いずれも小さいし、独自のメニューを持つわけではなく、他店と代り映えしないメニューを並べるだけだ。その一方、他店の批判には積極的で、飲食代が無料になるとの宣伝さえ盛んに行っている。それでも客は増えない。一時期、提携食堂への不満を募らせた人が大挙してこれらの店で食事をするようになったことがあったが、それも長くは続かなかった。提携食堂と内容に大差があるわけではないだけでなく、そこでの食事が原因で体を壊したと不満を訴える人が少なくなかったのだから仕方がない。

 結局、満足した昼食を取りたいとの思いを持ちながら空腹を抱えてはいるが、わざわざ外に出て腹を壊すよりはましだとして、味や盛り付け・サービスにも不満がありながら提携食堂でお仕着せのメニューを選ぶ、ということを多くの人が仕方なく続けざるを得ずにいる。食堂側もそんな状況に安心して、胡坐をかいている。改善どころか、料金の値上げや、質を落とした品の提供さえ行う有様だ。

 このような状況の中、食べたいものがない、食べようという気を起こさせるものがないなら、無理に食事を取らず、一食抜いた方がよいという判断をする人が出てきた。中には利用者が減れば、食堂も改善を真剣に考えるだろうと期待している者もいる。そしてそのような人が増えている。

 提携食堂が「与党」で、他の飲食店が「野党」、食事を抜く人が「投票に行かない」人を指すことは容易に理解されよう。そして、この例から分かるように、提携食堂に行く人、即ち、与党に投票する人も、決して満足・納得しているわけではなく、他に選択肢がないことから消極法の結果として選択をしているに過ぎない。

 そして食事を抜く人は、食欲があるにも関わらず、満足いく食事が提供されないなら食事を取らないことも厭わないという確たる意識・姿勢を持っている。こう考えれば、投票に行かないのも政治に無関心だからではなく、政治に関心があるのに納得できない政治・候補者に自らの票を投じる気がないという意思の表明だと理解できよう。

 これまでは投票に行かないことは権利の放棄であり、政治に対する消極的な姿勢だと認識されるのが常であった。しかし上記のように考えれば、それを積極的な対応だと捉え直したうえで、この新たな意思・態度を反映する仕組みを講じることがこれからは必要だということが分かる。

 そのための方策としては、選挙結果で有効投票数の1割の票も獲得できなかった候補者からは供託金を没収するという制度が公職選挙法に規定(第92条)されていることを活用することが考えられる。この基準はあくまで「候補者としての要件」に過ぎない。しかも、これは投票率が50%程度である場合では有権者総数の5%にしか相当しない。その程度の票も獲得できなかった者はそもそも候補者として不適ということなのだろうが、「(適当な)候補者として」の要件がそう規定されているのであれば、「(民意を適正に代表した)当選者として」の要件がこれに準じて規定されることに何の問題があるだろうか。

 その際、基準は有効投票数ではなく、有権者数とすべきだろう。有効投票数では「いやいやながら(消極的に)投票した」結果もカウントされるからだ。

 有権者数と議員定数を掛けた積の(仮に)2割獲得が当選には最低必要だとし、それが獲得できなければ定数の枠内であっても「負託を受けた」当選者だとは認められないとすることが理にかなっているし、有権者の意向が正確に反映されていると言える。

 例えば投票率が50%の選挙で議員定数が2の選挙区では、投票者数の2割(0.2÷(0.5x2)=20%)の票を集めなければ当選が有効とは認められない。当然ながら投票率が低くなればその分、当選に最低必要な得票数・率は上がることになる。この人を選びたいと思って投票した人がわずかしかいない選挙区では、当選するには投票した人の相当割合の票を集める必要がある。それならば、民意を託すに相応しい候補者がいなかったとして投票しなかった人たちの了解も得ることはできるのではないか。

 これを直近の国政選挙(2021年衆議院選挙)にあてはめてみると、比例当選した候補者が選挙区では有権者の2割の票すら獲得していない選挙区が複数ある。選挙区で対立候補に負けただけでなく、そもそも有権者から最低水準の信任も得ていない訳であり、このような候補者が当選者となることに納得できない感情を持つ者は少なくないのではないか。同じような状況の当選者が2人もいる選挙区や、中には、選挙区での当選者の半分未満の票しか獲得できず、候補者3名の中で最低の得票数であるだけでなく、有効投票の2割にしか及ばずに落選したにも関わらず、最終的には比例当選している者すらいる。

 不祥事を起こした議員がよく、自分の身は「有権者負託・信任を得ている」ことを理由にし、辞職を求める声に抗って職に留まるということがよくある。それを主張するのであれば、上記に掲げた基準を十分にクリアしていることが前提であるべきだし、その意味でも当選時にどの選挙区で、どの程度の票を得ていたのかは公表されるべきだろう。

 この案に対して、投票に行かないということだけを安易に取り上げるのではなく、それが無関心によるものなのか、不満の表明なのかを区分して対応を取る方が良いのは当然である。その際、考慮すべきは後者のみであることは言うまでもない。そうなると、意思の「積極的な」表明であることを示すためにも、投票には行くことが必要になる。その上で、候補者の中に自分の票を投じる価値がある人はいないと言う意思を表明する手段として白票を投ずることになる。

 こうすれば彼ら/彼女らの意思がはっきりと示されたことになる。既にこうした方法を訴えた声もあったのだが、それには何の効果もないとの反論があり、見向きもされなくなった。確かに現状では白票を投じるだけでは、せっかくの意思の表明が無駄になるだけだ。

 というのも、現在は立候補者の中から得票数順に定数まで当選者が決まることになっているので、得票数が有権者数の1割未満でも定数内であれば「当選」だとされるからだ。まるで、入学試験で得点が極めて低いのに、定員枠内なので合格と認定されるようなものであり、入学試験を実施する意味がないのと同様だ。

 本来、「定数」という枠より、得票という形で表示される民意(入学試験での得点)が重視されるべきことはいうまでもない。選挙に行かないのではなく、行った上で選んでいないという意思表示の意味は積極的に評価すべきなのに、現行制度上、白票は死票・無効票に過ぎないので、投票に行くのは骨折り損ということになる。

 これを改善するには、白票を(負の)民意の表明だと明確に評価し、その合計数より低い票しか得ていない者はたとえ定数内に収まっていても当選とは見なさない、ということにすることが肝心だ。これにより、ある選挙区ではそこの有権者の意思を代表してくれる候補者は(定数を満たすほど)いない、という有権者の判断が明確に反映されることになる。これが進めば、立候補者はいたにもかかわらず、当選者がいないという選挙区すら生じることになる。

 立候補者がいるのに当選者がいないのは一見、不合理に見えるかもしれないが、少なくとも国会議員は一選挙区の代表ではなく、国民の代表として選ばれた者であることが憲法に謳われている以上、問題はなかろう。むしろ、その方が「国民の代表」の趣旨に沿うし、逆に、これまでは定数内に収まることから当選とされていた者の中から今後は有権者の「代表」を名乗るに相応しい票を得ていないものは外れることで当選者の格も上がることになるうえ、不適格者に支払われる経費の削減にもつながるという効果もある。

 果たしてこれらの制度は、現職はもとより、これから選挙に出ることを考えている人にとっても大きな影響を及ぼす改革であることは間違いなく、当選に新たな制約が課せられることから被選挙人の賛同は得られず、実現が極めて困難であろうことは想像に難くない。しかし、投票をする側としてはこれほど理に適った制度はないのではないのか。

 他方、この制度導入後、その趣旨が誤解・悪用されて、有権者に耳障りな話は避け、ポピュリズムに徹しようとする候補者が急増するのではないかとの懸念を多くが抱くかもしれない。

 しかし、そのような懸念こそ、有権者をバカにして、有権者と自分たちは違うのだと壁を作る発想をもっていることの現れであり、立候補者がそのような意識でいること自体が政治に対する不信を招いていることこそを深く認識すべきであり、政治への信頼獲得(回復ではない)・民主主義の再興のために抜本的な対策が急がれよう。

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