教科書の厚さの違いが語ること

ある発言への違和感
 難解なニュースや複雑な世の中の仕組みを分かりやすく解説してくれると人気の高いジャーナリストが先日、民放の番組で
  「米国と教科書を比較すると、日本の教科書が薄いことが良く問題にされるが、実は、米国は
 教師の能力が低いため、子どもたちが教師に頼らず、教科書だけで学習内容が理解できるように
 厚い教科書が用いられている(用いざるを得ない)のに対して、日本では教師の力が高く、具体
 的な内容説明・指導は教師が行う(行える)ため、教科書ははるかに薄くて済んでいる。
という説明をしていました。

 これには番組の出演者が皆、厚さが明確に異なる日米の教科書を目の間にして、その差が日米の教員の能力の違いという、意外な理由に基づいていることを知ったことに対する驚きと納得(感動?)の声を上げていました。

 しかし、これは正しい理由なのでしょうか?日本の学校の現状を考えると、強い違和感があります。もし、日本の教師の教える力がそれほど高く、詳細な説明を行っているのであれば、なぜ授業についていけない、すなわち、教師の説明・授業の内容を理解できない子が常に生まれ、しかも彼らを表す「落ちこぼれ」などという忌まわしい言葉が使われ続けているのでしょう。

 この語はいまや広辞苑にも「普通一般から取り残された人。特に、授業についていけない生徒。」と記載されているほどです。日本の公立の小中高校では国(文部科学省)が定めた「学習指導要領」に基づいて教育が行われていますが、これは「全ての児童生徒に共通に教える内容を示し」たものであり、「最低基準」とされています。
 これらが「優秀な」教師によって説明・指導されているのですから、どの子も「最低」基準とされた内容は身に着けているはず(べき)なのですが、実際には理解できないでいる子が少なからずいて、それが半ば当然視されていること自体、論理的に矛盾しているのではないでしょうか。

 また、近年は教科書の厚さが増しつつあり、それらを詰め込んだランドセルの重さが問題にされています。これは上記の説明によると「日本の教師の教える力が衰えた」ことを意味することになりますが、正しい見方なのでしょうか。甚だ疑問です。

発言の根拠は
 話を日米比較に戻しましょう。

 教科書の厚さに大きな差があるという事実を前にして、それが教師の能力の差によるものだとされていましたが、二つの差が同程度だということをどうやって検証したのでしょうか。そもそも、文化・国民性を始め、学校制度や教員養成の仕組み、対象となる子ども達の成育歴も大きく異なる両国における教師の能力を客観的に測定し、比較することは可能なのでしょうか。

 実際、教員の能力を国際比較した研究成果というものは見当たりません。であれば、教科書の厚さの差に相当するほどの能力差が両国の教員の間にあるといえる根拠はないというべきではないでしょうか。もっとも、両者には相関が何もない、ということも言えません。

 教育の問題において、このように根拠があいまいな主張が検証もされないまま、当然のこととして広く受け入れられることが多く、これが返って現場に混乱と誤解を招くという事態はこれまで様々な場面で何度となく繰り返されてきましたが、「無双」と称されるほどの方ですら、教育問題については同じような対応をされたことに驚きます、いずれにせよ、日米の教科書の厚さの差という事実はあるのですから、その要因・背景を考えた場合、教師の能力とは別の何かがあると考えた方が良いようです。

別の理由があるか
 それは何かと考えるに当たって、まず教科書とは何か、から考えてみましょう。

 教科書は「(教科の主たる)教材(教科書の発行に関する臨時措置法第2条)」です(因みに、OXFORD ADVANCED LEANER’S DICTIONARYでは”textbook: a book that teaches a particular subject and that is used especially in schools and colleges”という実用的な説明がされています。)。また、教材とは「教育目的を達成するために、児童・生徒の学習に供する素材(大辞林)」であって、教育を行う上での手段です。
 そして、手段とはそれ自体で意味を持つのではなく、目的との関係から考えられるべきものです。事前に設定された目指す目的を達成するために最も効率的・効果的な方法が手段として求められます。従って、一度選定された手段でも、実際には目的の達成に役立たないと見なされた場合は破棄・変更されるか、別の手段に代えられていき、最も適したものが残ることになります。

 つまり、各国の教科書は、それぞれの教育目的・教育観に適した手段として編集・選定された中で残ったものとして、その厚さは教育目的との関係を反映しているのです。教師の能力(これも目的達成の「手段」の一つに該当します)とは関係ないことは明らかです。そこで、この差を生み出した教育の目的の違いが問題になります。

教育目的の違い
 両国の教育の違い等については、多くの専門家による研究成果がありますが、ここでは実際に日米英で教育した経験をもち、比較社会学の見地からそれぞれの特徴を抽出・分析し、具体的な指摘や提言をしているオックスフォード大学教授である刈谷剛彦氏の意見を取り上げます。

 同氏によれば、アメリカの学校の場合、教育の対象である子どもたちの能力に違いがあることを認め、子どもに応じた教育をするように求められるにも関わらず、それでも子どもの勉強が遅れて追いつかない、進歩が見られないということになると、それは、学校の問題、学校の社会的責任になる上、この点について納税者である地域社会や親たちの追及は相当厳しい、と言います(①)。

 このような考えの下では、能力的に劣る子どもでも学習内容が理解できるように、必然的に教科書の記述は丁寧に、厚くなります。これに対して、日本においては子どもが能力において平等であり、成績に差が生じるのは「生徒の努力不足」によるものだと考えている(②)ため、教師は誰もが身に着ける「べき」・身に着けられる「はず」の最低限の内容を(子どもが実際に理解しているかは別にして)教えれば足りますから、教科書の記述もそれに応じて薄くて済むことになります。

 こうした考え方の違いが日米の教科書の差となって現れているのです。これを、元文部省官僚で日本の教育の問題について研究している岡本薫氏の分類(③)に従って整理すれば、子ども及びステークホルダーである保護者という、「教育サービスの消費者」に重点を置く「コンシューマー・オリエンテッド」な発想に立つ米国と、「教える側=教育サービスの提供者」である教師に重点を置く「サプライヤー・オリエンテッド」な日本との違いと言えるでしょう。

 このため日本では、教科書(教師の説明)が分からない子も、教科書だけでは物足りない子どもも「自らの努力」で学校の外、すなわち塾に頼ることとなります。塾が公教育を補完する存在とされているのです。他方、塾にも通わずに授業についていけないでいる子は「努力不足」として「落ちこぼれ」と見なされるのです。

 これで、学校現場で「落ちこぼれ」という言葉が使われ続け、しかも教師がそう言った児童の存在を当然のことと受け止め、解消に向けた取り組みを積極的にしていない理由も明らかでしょう。(「落ちこぼれ」という言葉自体、自分の説明についていけない子を教師側から見た呼称であり、子ども達からすれば「落ちこぼれた」のではなく、教師によって「落ちこぼされた」という認識であるとして、「落ちこぼし」という方が実態に即しており、教師の意識・対応ぶりを表しているとの声は根強いのです。(岡本氏もこの語を使用しています。(④)

 また、最近は宿題を出す学校が減り、家庭で学習をする子が少なくなっているとの統計結果も公表されていますが、こうした傾向も、学校(教師)側からしてみれば、教えるべき内容は教えているので、そこから先は児童生徒の努力の問題であり、自らが関与する必要を感じていのではないためではないかと考えるのは行き過ぎでしょうか。

 さらに、補習のためであれ、進学のためであれ、通塾が当然とされている中で、塾に通うには費用がかかりますので、それが困難な家庭の児童は事前に一種のハンデを負っていることになります。貧困層に学力が低位の子ども達が多いという結果がでるのは必然と言えるでしょう。

教科書の違いから得るべきもの
 図らずも、教科書の厚さという身近な事例を基にした日米比較を通じて日本の教育の特質・課題が明らかになりました。

 日本側には厳しい内容となりましたが、だからと言ってアメリカ型の教育目的・対応が優れていると結論づけるつもりはありませんし、アメリカでも大きな問題を抱えていることは周知のとおりです。
 大事なことは、どちらが良いかという優劣をつけることではなく、問題解決(目的)に適した方策(手段)」を選択・実施する上で、基盤となるそれぞれの特質を良く把握・認識することなのです。

(注)
① 刈谷剛彦「アメリカの大学・ニッポンの大学」中公新書ラクレp142
② 同上p138
③ 岡本薫「日本を滅ぼす教育論議」講談社現代新書p47
④ 同上p30

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