(「流行と不易」が共に必要なのに)
教育の在り方が語られる際、よく「不易と流行」という言葉が引用される。松尾芭蕉が「去来抄」の中で記した言葉だが、時代がどう変わろうと維持されるべき「不易」なものと、時代の変遷に伴い「流行」として新たに必要とされるものの二つが必要だと、として様々な場面で使われる。
ところが近年の教育行政の動向をみると、改革の名の下、専ら「流行」への対応に追われている印象だ。それだけ社会の変化が激しく、今後、必要とされる教育が都度大きく変わっているからだと言うのだろうが、そうだとしても「〇〇教育」等という名で次々と実施している新たな教育・取り組みには「不易」の軽視に止まらず、深刻な問題があると言わざるを得ない。
(成果が不明)
まず、これらの成果や有効性が全く明らかにされていない。社会の変化への対応=流行、という目的を実現する手段として、新たに「〇〇教育」等を導入・実施している以上、それがどのような成果を挙げ、来るべき社会の形成にどの程度有効なものとなっているかを検証し、結果を明らかにすることは、それを提唱し、各教育現場に実施を求めている立場にあるものが行うべき最低限の責務であろう。
しかしながら、文科省は様々な「〇〇教育」等について、導入時にこそ意義・必要性を声高に唱えるものの、その後、それがどのような実績を挙げているのかについて述べることはほとんどない。中には実施前に当面の達成目標値を設定したもの(英検合格率、ICT活用教育実施率等)もわずかながらある。残念ながらそれらはいずれも、目標が達成できずにいるが、少なくともそういう結果は明らかとなっている。従って、他についても同様の対応をすればよいと考えるがそれが行われることはない。
というのも、文科省は「〇〇教育」等の意義・必要性を訴えることにしか関心がなく、それによって「いつまでに」「何が」「どの程度」変わる/改善するのか、という具体的目標を設定しようとは思いもしないからだ。従って、検証を行ったとしても、把握できるのは現状のみで、それが確実な成果として見なせるものか、投入した資源の質・量の面に比して十分と言えるのか、は一切分からない。判断・評価する基準がないのだから当然だ。
仮に想定した成果が挙がっていないことが判明すれば、その「〇〇教育」等は手段として不十分であることが明らかであるので早急に中止するか、原因・問題点を整理・解消して改善を行うか等をする必要があることになるのだが、実際には検証していないことを幸いにして、すべての「〇〇教育」が漫然と実施され続けている。
このように「必要だ、重要だ」との掛け声のもと実施されている中に、税金の垂れ流しに等しいようなものも含まれている可能性があるという懸念を拭えないこと自体、見過ごせないが、それが公的教育として実施され、未来を担う子ども達の貴重な時間を無駄に費やしているとすれば、由々しき問題だ。
さて、「改革」という名の下に実施されているので状況が改善されているような印象を与えているものの、実際には効果が不明という、深く憂慮すべき事態にあるわけだが、それを嘆いているだけでは何の解決にもならない。
まずは、「〇〇教育」がこのような実態にあることをきちんと認識し、その上で、今後新たな「〇〇教育」等が打ち出される際には、まずその目標(値)を明確にさせるとともに、実施から一定期間経過した時点でその検証を実施することを必須とすることが大事だということは理解されよう。
「〇〇教育」等にはこのような問題があるわけだが、実は、それとは別の問題も抱えており、しかもこちらの方が深刻だとさえ言える。
繰り返しになるが、次々と導入・実施される「〇〇教育」等は、いずれも来るべき社会において皆に必要とされる能力等を身に着けさせることを目的として導入されている。これは、これからの社会が当該教育による知識・技術等を身に着けた者によって成り立つことを意味する。だからこそ当該教育が将来に向けて、「現在及びこれまでに」「どのような・どの程度の」成果を挙げているのか、を検証する必要があるのだ。
そして、当該教育がこのような責務を担っていることを踏まえれば、それが確実に成功を収めるためには幅広い関係者の理解・協力が不可欠であって、それを積極的に求める必要があることは言うまでもない。現在のように、「〇〇教育」の内容・水準を文科省のみが検討・整理してこれで足りるとしているのは余りに楽観・独断的であり、将来に対して無責任であると言えよう。
新たな「〇〇教育」はいずれも知識として知っていれば済む、というものではない。将来の社会において不可欠なものだと提唱している以上、「必要だ」「(無いよりも)身に着けていた方が良い」といった程度ではなく、それが求められ、活用される場面やそれを基盤とした社会像を具体的に示す必要があることは言うまでもない。そのような対応を文科省は一切行っていないが、そもそもそれは文科省だけで対応できるものではない。将来の社会の構築に関係する省庁や機関・企業、言うなれば全ての組織等の協力が不可欠なのに、それを怠っていることは何よりも罪深い。
具体例として、大学入試改革でも話題となった「英語教育改革」を挙げよう。これまでの教育が文法や読み書きが中心だったと問題視して、四技能を総合的に育成・判定するとした。特に、これからの社会は国際化が進み、外国人との交流が日常的になるので会話力の充実が不可欠だというのを理由にして、リスニングやスピーキングを重視している。ところが、これらを学校のわずか週4時数(1時数=50分)の英語の授業で習得するという。しかも、授業中、ずっと英会話を行っているわけではないから、重要だと言いながらそれに使えるのはこの中のごくわずかしか使えない。それで必要な能力を育成せよ、というのだから矛盾も甚だしい。
もし本当にこれら能力の育成が必要だというのであれば、授業では足りない分を補うべく、また、実践的な力を育成すべく、英語を実際に耳にし、口にする様々な機会を学校外にも設けるべきだろう。外国語を習得するにはその言葉が話されている国に行くのが一番良いとは昔からよく言われる通り、「習うより、慣れろ」を実践するのだ。当然、それは文科省だけでは実施は困難であり、様々な機関・企業・団体の理解・支援・協力が必要となる。
最近では道路の表記や案内、百貨店等での掲示物に英語が併記されていたり、電車内で表示されるニュースやアナウンスで日本語の後に英語が使用されたりするようになり、町の中で英語に触れる機会も増えるようになってきた。これらは観光や五輪を目的に来日する外国人が増加することへの対応という側面が強いが、この取り組みの延長上に児童生徒を想定するように何故、各省庁や企業・団体に積極的に依頼・要望しないのか。「大事だ」と叫ぶのみで、それを実現するための具体的方策を何ら講じないのは、怠慢の誹りを受けても仕方あるまい。
そして、このことは他の政策でも同様にみられる。これらの不作為が実際にはどういう事態を招いているか、ここではその一例として「博士の惨状」を取り上げる(本論では、このように類似の政策も対象として「〇〇教育」等と総称している。)。
文科省は社会の発展の起爆剤としてのイノベーションを起こすために、理系人材の活躍が不可欠で、今後、多くの人材が必要となるとして「ポストドクター一万人計画」を立案・実施した。科学技術立国を標榜する中、これは高く評価され、各大学はこれに従い、博士課程を拡充し、多くのドクターを生み出していった。
ところが、せっかくドクターが増えたものの、それを受け入れる場は増えないため、多くの就職困難者が生じることになった。結局、研究職を続けるのは、将来の不安を抱えたまま、短期の契約期間を更新するしかない者ばかりとなり、むしろ、大半はそれまで続けてきた研究を継続することをあきらめ、一般職として企業に就職したりしている。人「財」の浪費以外の何ものでもない(「異能の才」の持ち主として、飛び級制度適用一期生で千葉大に進学し、大学院を修了した人物が、その後、期間雇用の職しか得られずにいたため、安定した生活を求めてトラック運転手に転職した、という事例があるが、これなどは典型である)。
「ポストドクター」が重要であると訴える以上、彼ら/彼女たちの能力を活かせる場が設けられるように、企業や大学に働きかけをするのが当然なのに、これをしなかった(不作為)結果、趣旨とは逆の事態を生じさせることとなったという皮肉を端的に示している。
対象となるドクターを輩出する(国立)大学は、法人となった際に教員の定年を延長した。これによる人件費増に対応するため、若手採用のための経費を削り、結果、若手は外部資金での短期・有期雇用が主流となった。文科省は口では「若手採用の促進」を叫ぶものの、そのための具体的な対応を大学に対して求めず、代わりに短期的経費を設けるだけだ。これで状況が改善するわけがない。
企業はもっと深刻だ。従来から、大学院進学者を採用するにあたり、多くの企業が修士課程修了者と博士課程修了者の処遇を同一にしていた。在職年数が処遇に大きく影響する終身雇用という慣行がまだ根強い中では、修士課程修了後に就職すれば、博士課程を修了してからより3年早く入社することになる。その差は大きい。前者はその間、企業から給与を得て、実務経験も積んでいるのに対し、後者は大学に授業料を支払ったうえ、入社時には同期である3歳年下の修士課程修了者と同じ額の初任給しか手にすることができない。3年間の努力・身に着けた知識・技能・能力が全く無視されている。余りに理不尽である。
(「博士課程修了者は、専門分野についての深い知識や技能を有するが、その範囲は極めて狭い上、コミュニケーション能力等に欠ける嫌いがあるからだ」、というのが企業側の定型の言い訳であるが、これに対して、大学も文科省も根拠がないとの反論もせず、また、現状改善のための教育・指導法の改善を行おうともしないでいるのは理解し難い。)
文科省所管の科学技術・学術政策研究所の調査結果によると、修士課程在籍者の3分の1以上(35.9%)が返済義務のある奨学金・借入金を抱えており、その額が300万円以上に及ぶ者が6分の1に達するという。また、71.1%が修士課程修了とともに大学院を去っており、その理由は「経済的に自立したい」というのが67.9%と最も多い。さらに、「博士課程に進学すると生活経済的見通しが立たない」も38.3%に上っている。
これのどこが科学技術立国なのか。また、これでは何のためのポスドク増員計画なのか。近年、博士課程進学者が減少しているというが、当然だろう。反面、このような状況下だからこそ、その中で博士課程に進み、ドクターを取得しようとし/取得した者は貴重な存在だと考え、彼ら/彼女たちが安心して研究活動を続けられるよう、大学や企業の積極的な働きかけを行わなければ、この傾向はさらに進み、我が国の停滞は明らかである。その時期は目前に迫っている。
重要だと唱えるだけで、事前にそれが目指す目標値も明らかにせず、事後も成果を検証することもしない。そもそも重要だと訴えながら、それを実施するために必要な措置すら取らずに現場に対応を求める…こんな愚策が続けられているのが「〇〇教育」等の実態なのである。国民はこのことを良く認識し、これを廃すべきなのだ。
それが教員の負担軽減、児童生徒の混乱解消、税金の無駄使い廃止の道である。

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