教育基準(設定・改訂)に意味はあるのか?

我が国の教育制度の大きな特徴として、国が教育基準を策定していることが挙げられる。

「学習指導要領」と言うそれは、幼稚園から高校までの各学校段階別に策定され、教師が全ての児童生徒に「指導」すべき内容・水準を国が定めたものであり、児童生徒はこれを身に着けることとされている。
 その内容等は法律的な効力をもち、これに従わない指導は違法だとする判例がある。
 ところが、この学習指導要領には本当にそれが必要なのかと疑念を抱かざるを得ない面がいくつもあるのだ。それを順次見ていきたい。 

基準の効果
 まず、我が国の初等中等教育段階の学力は国際的に高い水準にある。これは様々な調査で明らかになっている「客観的な」事実だ。そしてその要因に、国がこのように基準を定め、全国に一律の内容・水準の教育を実施していることを挙げる声は多い。しかし、本当に国が基準を設定したことが高い成績に結びついているのかは明らかではない。基準と学力との因果関係が明らかでないからだ。

 なるほど我が国の児童生徒の学力が高いのは確かであるし、国の基準(学習指導要領)があることも事実だが、だからと言って両者に(正の)相関関係があると軽々に結論づけることは慎まなければならない。

 世界的なベストセラーである「失敗の科学(ディスカバー・トゥエンティワン)」は「〇〇に本当に効果があるかどうか、それがわからないときは、<ランダム化比較試験(RCT)>を実施して答えを見つけ出すほかない(p208)。」と断言する。

 従って、学習指導要領の有効性を調べるためにはRCTを実施する必要があるのだが、その際には「基準(学習指導要領)がなくても学力は伸びたのか」、「基準がなければもっと学力は伸びていたのか」、という「反事実」を設定した上で、それらを比較検討しなければならない。

 だが、このような検証はこれまで行われたことがない。それ以前に、学習指導要領に基づかない教育を行うこと、児童生徒にそれを課すことなど想定できないとして大きな反発が生じ、検証どころではないだろう。しかし、問題が大きく複雑であることと検証が困難であることは別だ。

 「失敗の科学」でも「(開発援助の効果のような)規模の大きな問題では、RCTの実施は非常に困難になる(p205)」と明確に認めている。その一方で、「問題が大きくて大変なら、小さく分解すればいい(p205)。」と対処法を述べ実施を促す。ここまでするのは「定量的な分析は、物事の有効性を評価する上で、科学的な根拠に基づく決定的な判断基準となる(p192)」からだ。この重要性はいくら強調しても足りない。

 このように学習指導要領全体を対象にするのではなく、項目を限ってそれに従った教育と、従わない(教師等の創意による)教育とを比較することで定量的な分析が可能となり、学習指導要領の有効性が評価されることになる。

 既に「学力の経済学(ディスカバー・トゥエンティワン)」が、現在実施されている教育政策には教員研修や学力テスト等効果がないことが明らかなものがあることを客観的に明らかにしている
同書はRCTの重要性も指摘している上、米国の教育省が「落ちこぼれ防止法(No Child Left Behind Act)の中で「エビデンスとはランダム化比較し年に基づくもの」であると明言していることにも言及している。また、「統計が最強の学問である(ダイヤモンド社)」もランダム化比較実験について、その歴史とともに有効性を詳述している
が、これに対しては無視か、せいぜい「大事だ」「必要だ」という抽象的な根拠に基づく議論が繰り返されているだけだ。有識者からの指摘に誠実に応え、その有効性に対する国民の懸念を解消する/納得を得るためにもその効果を検証し結果を明らかにすることが不可欠であり、しかも早急に行うべきことは言を俟たない。 

 そして、この結果が明らかになれば、国による基準が有効であるとする人たちに、なぜこれと同様の仕組みを導入する国が増えないのか、特に先進国とされる国々で導入している国が少ないのかについて真剣に考えるきっかけを与えることになるのではないか。

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 なお、このような検証の重要性を認識して、これを「小さく分解」したものを、独自に実施しようという意欲に満ちた自治体や学校が現れるかもしれない。ところが、現状ではそれをすることはできない。学習指導要領に基づかない教育は法令違反とされるからだ。実施には文科省の許可・承認が不可欠なのだ。要するに検証は自治体や学校の判断で行えるものではなく、国(文科省)が自ら実施すべきものなのである。
実は、もっと簡単にRCTを実施する方策はある。全国の国立大学附属学校の生徒を対象にすれば良い。本来、国立大学附属学校はこのようなカリキュラムの有効性・先進的な教育の可能性等を実証する実験校としての使命を帯びて設置されている。このため、児童生徒には通常のカリキュラムでの授業を受けつつ、それを超えた/それとは関係のない授業も受容することができるだけの能力・余裕があることが必要とされるとして、入学試験による選抜が不可欠とされているのだ。
(このような本来の趣旨を忘れ、進学校化する附属校が多いのは嘆かわしい。これでは附属校の存在意義がない。)
 普通の児童生徒ではなく、選抜された者から得られたデータでは有効性・普遍性がないとの批判があるかもしれないが、ここで知りたいのは国による基準の効果・有効性であることを踏まえれば、結果を他の附属学校との間で比較検証すれば十分だろう。条件が満たされさえすれば、同一校内のクラス間の比較でも良いかもしれない。
 また、学習指導要領は「全ての児童生徒」を対象としているのに対して、附属校がそれに従わず独自の教育を実施すれば、学習指導要領の制約から解かれるので、成績が著しく伸びるのは明白であるとの反論もあるかもしれない。
 もっともな指摘であるが、ここでの比較は附属校同士での比較を前提としたもので、「全ての児童生徒」を対象としたものではないことは既述した通りだ。それよりもこの指摘は次に述べる、学習指導要領の「基準性」という大きな問題につながることに留意する必要がある。
 なお、附属校と同様な取り組みを行う仕組みとして「研究開発学校」があるが、これを活用するには比較検討するだけの校数を指定しなければならないという課題がある。

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「基準」の意味
 次に、学習指導要領は「各学校がカリキュラムを策定する上での基準」だという。効果が分からないものを基準にして策定するカリキュラムの有効性に懸念があるのは言うまでもないが、それ以前にこれを「基準にする」という意味を考える必要がある。
 基準とは「ものごとの基礎となる標準。比較して考えるためのよりどころ(広辞苑)」とされる。 
 また、「基準を満たす」と言う言葉があるように、最低条件・レベルという意味もある(他方、これを扱うのに必要だとされる授業時数については「標準」という語が使われており、それを下回ることも想定されているのとは対照的だ)。

 であれば、学習指導要領自体が何を基盤に、換言すれば、全国の児童生徒のどの程度が理解・修得できる内容・水準を想定して設定されているかを明らかにし、それが関係者に認識されていることが必要である。そうでなければ、それと「比較して(自らの地域・学校で教える内容・水準を)考える」ことは不可能だからだ。

 この大事な情報が欠けたものを「よりどころ」にして策定したカリキュラムでは、当該地域・学校に合わない内容・程度を含むものとなるのは避けられない。それがこれまで問題とならずにいるのは、上述した通り、学習指導要領自体の成果・有効性が検証されずにいるため、これを形式的に取り入れた(全面的に従った)個々のカリキュラムが検証されることもないからである。そして、このような実態には「地域の実情に応じた教育」とは名ばかりで、全国で画一的な教育が実施とされていることを良しとしているという、極めて深刻な国の態度・真意(「建前」と「本音」の使い分け)が見事に現れている。

 他方、「基準」がなければ、各学校・自治体が(勝手に)独自のカリキュラムを策定することになる惧れがあり、これでは児童・生徒に安定・確実な内容・水準の教育が実施されない可能性があるとして、国が一定の基準を設定・提示する必要があると訴える意見があるが甚だしい暴論である。

 そもそも、(手抜き?をして)低い内容・水準の教育を実施しようとする学校・自治体(教育委員会)が生じると考えていること自体、地方教育行政制度を不信・否定し、中央集権的に教育を管理・監督したいという発想が背景にある証拠であり、こんな考えで教育行政を担っていること自体、言語同断である。

改訂(効果・間隔)
 また、学習指導要領は「社会の変化に対応するため」として約10年ごとに改訂されているのだが、ここにも問題がある。何よりも、改訂に際して、以前の改訂によってどのような成果が上がり、どのような課題が残っている/生じているのかが前提にあるはずだが、これらが明らかでない。改訂の前提となる文科相から中教審への諮問文にも前回改訂については一切言及がない。ここでも検証が行われていないのは言うまでもない。

 前回改訂の成果や問題点が不明な状態で、新たな改訂の必要性や意義を一方的に唱えられても、それがどの程度重要・有効なのか、判断しようがなく、我田引水としか言いようがない。これでは教育の継続性という面からも問題だ。

 しかもそこには「効果が認められた」「今後も有効だ」と客観的に判断できるものは継続する一方で、そうでないものは廃止するというメリハリも見られない。教師の多忙な実態が問題とされている中で、新しい取り組み・教育を取り入れるのであれば、それと同程度の量・重さをもつ教育を削除するという「スクラップ&ビルド」は当然、実施されるべきだろう。それが徹底されず、旧来のものも「必要だ」「重要だ」として温存されたまま、新たな教育が付加されている。これが現下の、教員の職場環境を巡る問題の根底の一つにあるのではないか。

 さらに、改訂の間隔が社会や時代の変化が早く、激しさを増す中で、従来通り10年で良いのかも疑問だ。有識者による慎重な検討や、改訂内容の周知・研修等に相当の時間を要するというのでは、改訂内容・実施より手続きが優先することになるので本末転倒だろう。
 また、検討すべき事項・対象が膨大であることは理解するが、審議開始から全面実施まで最短でも5年余かかっているようでは、当初対応が必要だと判断されたことが実施される頃には既に状況が変わっており、それとは別の新たな事項への対応が求められるということにもなりかねないだろう。

 これを踏まえれば、仮に改訂が必要として、それを社会の変化に適時に対応したものとするならば、これまでのように全教科について一斉に実施するのではなく、教科別、分野別等、部分的な改訂というのも検討する価値があるのではないか(その方が問題や対応の必要性が明確になるだろう)。それが教員の負担軽減にも資するはずだ。求められているのは「やらない(やれない)理由」を探すことではく、「やるために必要なこと」を考えることであろう。

指導と理解
 最後に、学習指導要領は文字通り、教師が「指導」する内容・水準を記載したものであることを取り上げたい。教師に期待されているのは、これに沿った授業を実施することである。それが行われていることが肝心で、児童生徒がその内容を理解できているか否か、それが理解できない/それに追いつけない児童生徒がいるか否かは大きな問題ではない。そもそも、どの程度(割合)の子が理解できる内容・水準かという学習指導要領の基準性が曖昧なため、現場でそのような子がどれ位発生しているかについての関心は低いのは当然だ。教師はちゃんと「指導」したことを理由にして、彼ら/彼女らを「放置」することになる。

 これが積み重なった結果、学年を進むごとに教科・勉強が分からない/関心を持たない児童生徒の割合が高くなるし、高校性なのに四則計算すら満足にできない、英語での簡単な挨拶もできない生徒が少なくないという状況をもたらす。「落ちこぼれ」という忌まわしい言葉があるが、その実態は「授業についていけない生徒(広辞苑)」ではなく、教師が「落ちこぼした」者なのだ。

 その一方で、理解が早い/進んだ子、授業の進展に満足しない者に対しては学習指導要領に記載された内容・水準を超えた事項を指導することが可とされている。学習指導要領について来られない子は放っておき、それには満足できない「優秀な」児童生徒には配慮している訳だ。ところが、この偏った措置の対象となる子達の多くは公立校ではなく私立学校に進んでいるのが実態であり、その傾向は年々強くなっている。これでは年々減る対象者に対して配慮をするよう学校に求めているということになり、非効率極まりない。

 以上を踏まえると、学習指導要領は、さらにその改訂は、意味があるのかと言わざるを得ない。

 文科省による教育行政の根幹ともいうべき事項であり、指摘した内容を理解し受け入れるのには抵抗感が強いだろうが、もはや根拠のない、抽象的な議論で済む段階ではない。反論を待ちたいが、それも検証を踏まえた科学的・客観的かつ具体的な根拠に基づいたものであることが必須だ。
 合理的な検討・判断が行われることを強く期待しているし、そのためにも「検証」の実施を強く求める次第だ。

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