(2022年12月に作成し、公開せずにいた原稿だが、この度、当該教育委員会で
第三者委員会報告が公表されたことを踏まえ、遅まきながら投稿する次第。)
また、生徒が若い、貴重な、かけがいのない命を自ら断つという痛ましい事件が発生した。
「旭川中学生凍死事件」だ。ネットでは「いじめ事件」との題がつけられ多くの記事が掲載されているが、当の中学校ではいじめはなかった、としているらしい。教師は「いじめではなく、ふざけていただけ」だと判断していたという。
また第三者機関での調査でも「いじめ」に相当する事実は確認できなったという結論がまとめられたとのことだ。そこからは「いじめの有無」のみが関心事であることが伝わり、一人の女子生徒の命が失われたという事実に対する認識の重さは微塵も感じることはできない。
一体、「生徒の命」と「いじめの有無」のどちらが大事なのか。生徒が命を絶ったという厳然たる事実を踏まえ、いじめの有無とは関係なく、その原因・背景・理由を明らかにし、そのうえで二度と同様の事例が発生しないようにするための方策を検討・提言するのが当該機関の役目ではないのか。
本事件の背景に「いじめ」があったか否かを確認すること(のみ)が当該機関設置の目的であり、それ故の調査・結論であるなら、そのような機関を設置する意義・必要がどこにあるのか。
これまで全国で発生した類似の事件でも、学校や教育委員会からは当初「いじめはなかった。ふざけていただけだ」という発言・認識が再三行われてきた。それにも関わらず、その多くが最終的にはいじめによる事件だと認定されている。
児童生徒と日常的な接触をする教育の場で、このような対応・判断をする学校・担任が少なくないことに愕然とする。
これらの発言・判断が行われる背景には「いじめなら大変だが、そうでなければ(生徒の命が失われていても)問題はない」という認識があるとしか思えない。何よりも関心があるのは自分(達)の責任の有無であり、それ以外は些末な事項なのだ。
つまり、「自殺が起きたのは事実であるが、ふざけていた結果で起きたことで仕方がなく、自分達に責任はない」と言っているに等しい。
さらに今回はそれに加えて、娘を亡くし深い悲しみの中にある遺族である母親に対して
「加害者だとされている子にも未来がある。」
「10人の加害者と1人の被害者の未来とどっちが大切かわからないのか、頭がおかしいのでは
ないか」
と言う発言までしたらしい。およそ信じられない。しかもこれが「校長を助け、公務を整理する(学校教育法第37条)」教頭によって行われたと言うのだから言葉を失う。
学校は大丈夫なのか。これが子どもを安心して託す価値がある場所なのか。
そもそも、義務教育段階では通学する学校も、担任する教師も原則的には選べない。子どもの就学・履修・生活状況は言うまでもなく、いじめの有無を正しく把握しているか否か、不幸にして自殺までに至った際にその責任を認識するか否かは、偶然に担任に割り当てられた教師次第だというのは悲劇を超えて喜劇的ですらある。
このような状況が学校への信頼欠如へとつながり、挙句に「教師ガチャ」と言われるようになるのを恐れる。
現在、教師の勤務環境の厳しさが社会的な問題となり、負担の軽減が課題となっているが、その一方でこのような学校・教員の実態が何度も明らかにされることをどう理解すれば良いのだろう。
子ども達の「命」より、労働者としての教員の職場環境の改善が問題視されていることに釈然としない思いを抱えるのは自分一人ではあるまい。
もしかすると、環境が劣悪なために子ども達の状況を冷静・正確に把握することが難しいとして環境改善こそが重要で対応が急がれると言うのかもしれない。それならば、かつての民主党のフレーズを持ち出すわけではないが、子ども達のために「コンクリートから人(子ども)へ」を徹底する覚悟・対応が首長には求められるだろう。
その上で、学校・教員に対しては、二度と児童生徒が自殺した原因にいじめの有無を問題とするようなことを許さないこと、何よりも全ての学校で自殺が発生しないこと、そのために児童生徒の状況をしっかり把握することを確約させる必要があろう。
また、担任している生徒が自殺した教員は免許を停止することも考慮すべきかもしれない。
少々過激に過ぎ、教師志願者が減少している中では批判が多く寄せられる考えかもしれないが、子ども達の命を最優先に考えた上で、現状の改善につなげ、保護者を始めとするステークホルダーの理解と信頼を確保するにはこれくらいが必要ではないかと思わずにはいられない。
もう二度と、子どもの自殺及びその後の不誠実な対応についての報道など目にも耳にもしたくないのだ。

コメント