不肖の息子(父母のこと)

 人の性格形成に影響を及ぼすものについては、様々な要因が指摘される。それらはいずれも、程度の差はあれ確実に寄与しているのだろうが、特に幼少期・若いころに読んだ本や漫画・見た絵画や映画・聞いた音楽・友人との会話といった経験が及ぼす影響が大きいことは経験からも間違いなさそうだ。性格は人生の初期に形成されるというなら、なおさらのこと、成人するまでの時間を最も多く一緒に過ごした両親の言動が及ぼす影響が大きいのは当然だろう。

 ついては、本ブログでは様々な事項について一般的に認められているのとは異なる視点からコメントを述べているので、その背景となる筆者の思想の背景・基盤がどうやって形成されたのかを理解頂くのに有意義ではないかとも思い、父母(の影響)について記すこととした。

 ただし、それらを十分に活かしきれなかったのが実際(だから三流に終わった)なので、息子たる我が身の不甲斐なさ・反省がメインとなることはご理解いただきたい。

(父のこと)
 さて、父は生家が相当の家格を有していたらしい。今でも菩提寺には「先祖代々の墓」が何基も並んでいる。また、筆者が幼い頃に見た、ある偉人の生涯を描いたTVドラマには、同じ苗字の者が地元の名士として登場していたのを思い出す。長じて、上京した後でも、出身地に話が及ぶと、比較的珍しい苗字であることもあり「えっ、もしかしてあの…」と知って驚かれることが何度かあったほどだ。

 ただし、そういう反応をするのは相当の高齢者ばかりだった。それもそのはず、その家は、父がまだ若い頃に、家長である祖父が急死したことで衰退の道を歩むことになり、家業も大きく変わったようだ。従って、当時の状況として語られること自体、それ以前についての伝聞が主で、それを知っているのも限られた人のみであるのも当然だ。

 家勢の復興に向け、父は三男だったのに、家の責任を一身に背負おうことになったようだ。そこにどのような事情があったのか知る由もないが、努力の甲斐あって、一定の財産を築くまでになり、家の評価も挽回することになる。従って、上の二人の兄を差し置いて実質的に家長の任を務めることになり、墓の管理も委ねられることになったという。当然のことながら、それまでには息子には想像がつかない、相当の苦労が多々あったはずだ。

 それらについて多くを語らなかった父だが、筆者が小さい頃から何度も、口癖のように「社会では常に気を抜くな。<他人は皆、いつもこちらの隙を狙っている敵だ>と思え。そうでなければ厳しい社会を生き残れない。」と言っていたのは良く覚えている。

 ところが、まだ何も社会のことを知らずに、恵まれた生活が送れることをむしろ、当然だと思っていた身だったため、これらの言葉を耳にするたびに「暗い、(人を疑うことを勧める)不快な話」という印象を持つばかりだった。

 果たして、今から考えると、その言葉には父が自身の苦労・経験から得た信条・処世術といったものが込められていたのだろう。その言葉を生むことになった背景、それに関係する経験・出来事を生前にもっとしっかりと聞いておくべきだった、と今更ながら悔いている。

 また、若いころに仕事一辺倒であったことの反動からなのか、家庭を持った頃から様々な趣味に献身することになったようだ。その範囲はクラッシック音楽から洋ラン栽培やオートバイ・無線通信まで実に幅広く、挙句に次々と対象が広がった。妻である母も「生粋の新しいもの好きだった」と評するくらいだった。

 しかもそれらについて、単に「新しいものに興味をもった」で終わらず、専門書を買って調べるのはもちろん、関連の製品を集めるだけでなく、独特な器具を自ら試作するほどだった。機材や装備への関心も高く、新しいものがでると次々を買い揃えていた。その延長と言えるのかもしれないが、自宅を改築した際にはテレビや車はもちろん、トイレや洗面所も含め、家内にはバスタブ以外何でも二つ以上あった。

 このように旺盛な関心と好奇心をもった身として、一人で楽しむだけでは飽き足らず、それらの魅力や苦労を語りあう仲間が欲しくなるのは当然だろう。そのため、身近にいる人材として、長男がそれに引きずり込まれることになった。おかげで、筆者も幼いころから好奇心が旺盛になった。

 今でも国際情勢や企業の動き等が気になるのはもちろん、大学受験当時に使った物理や化学をはじめ、世界史や倫理の参考書を読み直したり、各大学の入試問題集(赤本)を解いたりしているのもその影響で、「ボケ防止」に留まらないと言えるかもしれない。

 また、在職当時には「生涯学習」という新たな理念の認知・周知に携わったが、教育を教える側ではなく、自らの興味関心に基づく「学習」を根幹にした新しい考えが容易に理解できた気がしたのも若いころからの経験が役立った面が大きいのではないかと思う。

(母のこと)
 他方、母は、父とは真逆の思想の持主である。

「常に感謝の気持ちを持って他人に接しなさい。恩を受けながら平気で済ませられる人などいないので、他人に対して好意をもって接していれば皆、必ず相応の対応をしてくれる。それを忘れずに。」といつも口にし、自身もそれに従った行動を取り続けている。

 彼女がこのような発想に至ったのは、よほど家庭の愛情を注がれたからだろうと当初は思っていた。終戦後の時期に、わざわざ都内の女子大に進学したほどだったこともそれを裏付けると考えていた。しかし、後になって、八人兄弟だったと知った。それだけの兄弟の中で、「六女」の「末っ子」にどれだけの関心が注がれていたのが普通かと思えば、要因は家庭環境以外にあると考えることの方が合理的だろう。

 そこで、一度、母にそのような考えを持つに至った理由を聞いてみたが、自身について語るよりも祖母も周囲から暖かく迎えられた人だったと言うのみで、具体的なことは何も述べなかった。要は天性のものとしか言えない。

(性格の違う二人の影響)
 このように父母の考え方が大きく異なる下で育つと、同じ事象・出来事に対して毎回、全く異なる評価・判断を聞かされるのだから、それが及ぼす影響が大きいことは理解されよう。(ただし、日常的には、母は父の前で自身の判断・考えを述べることはなく、黙って聞いているばかりだったが、父が不在の場で「あれについて父はこう述べたが…」と自身の考えを披露してくれていた。)

 こうしたことが繰り返されると、どちらの親の言うことを信じ従えば良いのか迷うことになっても不思議ではない。その挙句に親の言うことに不信感を抱くことにもなった可能性すらあった。

 幸い、そこまで至ることはなく、むしろこれを契機にして、何事に対しても「正解は唯一」ということに疑念をもち、異なる観点からの「別の正解」を意識・詮索する癖がつくようになった。

 社会人・組織人としては、何度も「唯一の正解・方策」が提示され、それを進めることが求められてきた。それらを素直に受け止め、従うことが当然とされてきたが、この癖のために「本当にこれが正解・唯一の方策なのか」が気になった。満足な議論もなく、一方を選択することが当初から決められているような場合はなおさらその思いが募った。それらの問題点や、別の方策を検討しようとする気持ちが増してきてそれらを指摘さえする。結果として、「天邪鬼」と言われたり「ひねくれ者」と評されたりし、傍流化することになるが仕方ない。

 吉田松陰の「かくすれば、かくなるものとは知りながら、止むに止まれぬ大和魂」を座右の銘とするようになったのも必然だろう。

 畏敬する先輩である、亡き岡本薫氏も同様の立場から、省内で当然だと思われている考え・方向について会議で疑問を呈し、それに対して他が誰も答えられずにいたことを著書等で何度も明らかにされている。彼ほどの能力・文才がないので、自分の場合、中途半端に終わったことも多いのが実情で、残念極まりない。それが本ブログの背景にあるとご理解頂ければ幸いだ。

 所詮は「負け犬・九流の自己弁護」だ、と言わればそれまでだが…。

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