「学校」は誰もが通った経験を持つ場である。そこを巡っては、近年、教員の職場は「定額働かせ放題」で「ブラック」だということが社会問題化したことを始め、「不登校問題」やPTAへの加入が半強制的だとして解散が検討される等多様な事項が話題になっている。それだけ長年に渡って続けられてきたこの仕組みは制度疲労が生じているのだろう。
学校(school)自体、アリストテレスが創設したスコーレ(schole)を起源としながら、それから2000年以上の間、大きな変化もないまま来たことを踏まえれば、これまで問題なしとされてきたことが、時代・社会の変化に伴い、多様な問題となることは当然で、むしろ遅いくらいだと言えよう。それらについて逐一考えることは教育における「流行」に該当する事項として重要であり、興味深くもあるが、それらについては他の場でも様々に論じられているので、ここでは、それとは異なる「不易」の視点から、そもそも学校という組織の不変の性格とは何か、を取り上げてみたい。
(学校の特殊性とは)
すると、構成しているのが「先生と生徒」ということに誰でも気づく。これは見方を変えると「プロとアマチュア」ということになるが、性格の異なる両者が混在する場・組織は他には見られない。
通常の組織内でも、教育・指導は頻繁に行われる。その場合も「先生と生徒」に分かれるが、それは先輩や上司が、後輩や部下に対して行うもので、双方に組織内の立場・法的な身分の違いはない。
「プロとアマチュアの違い」について、最近は様々な分野で「これが素人・アマチュアによるものか?」と驚くような作品・成果等が数多く披露されるので、両者の境界がどんどん曖昧になっているように感じる。五輪での各選手の卓越した演技・記録の高さは以前から多くの人が認めており、そもそも一般とは違う「特別なもの」とみなされているのが実情だ。
これを例外としても、従来は、何も資格や権限を持たない個人が作品や演技等を公に発表するのは大変な困難を伴ったが、今やyoutube等の発達によって格段に容易となり、多数の目にも触れやすくなったことは確実だ。これにより、専門的知識・技能の差では両者を区分すること自体、もともと難しかったのだとさえ言えることが明らかになったのではないか。
その中で報酬の有無は両者を区分する明確な基準として、従来からよく取り上げられてきた。優勝賞金が数千万円に及ぶゴルフの試合で、資格を問わず参加が誰にでもオープンに認められる中で、並みいるプロを差し置いて優勝したのに、アマチュアだからと賞金が一円も支払われなかったのは残念だというニュースは良く目にする一方で、それが当然のことと広く受け止められている。
方や、アマチュアの祭典であるオリンピックに、最近は、年齢制限等が課せられているとはいえ、プロの競技者の参加も認められている。しかもこの場合でさえ、プロには参加費や報酬が支払われるのが認められるというのは、本来、根幹であるべき大会の趣旨・目的より、参加者の意向が優先するとの判断がされていることになり、不公平・本末転倒なのではないか。
このように、今やプロとアマチュアを区分する考え方自体が大きく変動している。従って、両者を分けて考える必要があるのかという意見もあるかもしれない。しかし、両者にはやはり大きな、根本的な違いがある(はず・べき)と理解している者が多い中では、それを踏まえて各々を別の存在として認識し、扱うことも必要だろう考える。果たして、両者の違いとは何なのか。
これを考える上で、身近な例として野球を取り上げてみよう。
プロとしてはプロ野球、アマチュアとしては高校野球がある。緊迫した試合や、選手が懸命にプレーする姿が与える感動に差はないだろうが、それらを見る際に前提としている事項・要件には大きな違いがあるようだ。
前者では勝利・優勝に向けた貢献度や達成した成績・記録が重視され、大きく取りあげられる。これに対して後者では、試合での一挙手一投足の真剣さ・努力ぶりが注目される。後者の選手は皆、攻守が変わるたびに、走って定位置に着きプレー開始に備える。そして内野ゴロでも一塁まで全力で駆け抜ける。それらが当然視され、賞賛される。
(プロとアマチュアの違い)
この違いを生むのは何だろう。上述の例からは個人重視と集団重視の違いと即断されそうだが、別の例を見ればその差がより明確になろう。
即ち、プロ野球では、どれだけ一生懸命に練習し、バットを何度も振り、球を何球も投げていようと、試合で打てない、勝てない、のでは選手は全く評価されない。これとは逆に「俺流」を吹聴し貫き、皆とは別の行動・練習を行っていても、シーズンを通して確実な成績を上げ、チームを優勝に導き、タイトルさえ獲得したならばそれまでの姿勢が問題にされるどころか、賞賛された挙句に、破格の報酬を獲得することにもなる。
高校野球では全く異なる。相手チームの4番バッターを毎回敬遠した監督が大きな非難を浴びたのは今でも話題に上る。勝つための方策として正統な作戦の一つであるのに、あれほどの議論を呼ぶことになった。これとは逆に、試合での成績は芳しくないが、人一倍練習に励んでいる姿勢が評価されてポジションが与えられるといったことは度々耳にするし、当然の判断・対応だと見なされる(それが癒着だとか、忖度だとかという非難を生むこともあるのも確かだが)。
このように、プロとアマチュアではかなり異なる基準に基づいた対応が取られる。それは前者では「結果」が、後者では「過程」が重要とされていると言えよう。
前置きが長くなった。学校という組織がもつ特殊性・問題点を明らかにするのが目的だったが、これは上記によって明らかだろう。
(プロの教師とアマチュアの生徒)
つまり、このように性格の違う、「プロ」である教師と「アマチュア」である児童・生徒が学校という同じ場にいる訳だ。「結果」を重視する教師が、「過程」が重要とされるべき児童・生徒に接していることになる。そして、教師は本来なら児童・生徒の立場・観点で接するべきなのに、それが行われずにいることがすべての問題の根幹にあるのだ。
換言すれば、「アマチュア」である児童・生徒には、教師はテストや模試の成績や大学への進学実績といった「結果」よりも、そこに至るまでの努力や姿勢といった「過程」をしっかりと把握し、それを評価することが大事なのに、それらは「プロ」としての感心事項からは外れるのだ。この延長として、大学等への進学に関して、結果の判定に資する「新テスト」導入に尽力するよりも、高校三年間の「過程」の記録である内申書や行動録を重視し、それらを踏まえた進路指導が行われ、大学側もそれらをこそ重視されるべきであるということは納得されるだろう。
また、一時期、導入が勧められた「e-ポートフォリオ」は有意義な取り組みであったのに、結局、関係者の理解が得られないまま廃止されることになったのは大変残念だったが、その背景に「過程」よりも「結果」、それも一時的な時点での試験「結果」のみを重視しようとする「プロ」の関係者の意向が大きく影響したことは理解されよう。
繰り返しになるが、「プロ」である教師にとって関心があるのは、クラスという集団のテスト成績や、進学実績といった「結果」であって、自分が対応すべき対象である、児童・生徒(=アマチュア)の立場に立った、彼ら/彼女らの努力や取り組み、発達・向上度合いに注目しようとする姿勢はない。
このような実態がある中で、「意欲・関心」が重要だといくら唱えても説得力がないのは当然だ。
(同様に、児童生徒の方も、単に公式や暗記法を暗記・応用して、手っ取り早く正解にたどり着き、得点を稼ぐことを目指すという「結果」に関心を持った方法ばかりに執着するのではなく、そこに至るまでの「過程・努力」こそ重視し、それに取り組む姿勢を身に着けるべきだと思うのだが、教師がそれを評価しない問題が根底にある。)
そしてこのことは、子供たちがそこに至るまでの過程より、結果として生じた事態にばかり関心を払うので「不登校」「学校嫌い」を生むとともに、状況を複雑・悪化させる一因にもなっていると言えよう。
問題を引き起こす要因は学校という組織の特殊性に潜んでいるのだ。
本来は、教師は「アマチュア」である児童・生徒の「過程・努力」を第一に考えるべきで、そこに一般的なものとは異なる、学校における「プロ」の意味があるべきなのだが、残念なことにそれが検討され、意識・確立されたことはない
この点・特殊性を踏まえ、改善を図らなければ、児童・生徒の数が激減することで学校における児童等の存在感が相対的に高まる中では、ますます児童・生徒のみならず保護者等からも不信の念をもって受け止められることになり、結果、制度を維持・継続していく自体が困難になるだろうとの危惧すらする。

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