近年、社会の流動化等に伴い、職場における慣行・意識が大きく変わりつつあるとは言え、終身雇用を前提とした制度は我が国のあちこちにまだ根強くみられる。役職等へ就任する者を選任する際、その分野への知識や能力よりも、当選回数の多さがまず重視される議員を筆頭として、経験年数が長いことに重い価値が置かれている職業は数多い。
中にはパイロットのように飛行時間、外科医のように手術件数という、技能を測る客観的指標が設定され、それら指標の数値が高いことが優秀な人材であることの証明となっているものもあるが、それも経験年数が長いこととほぼ同義であって、このようなことが認められている背景には多くの経験をもつベテランに対する信頼が高いことがあると考えられる。
なるほど、困難な状況下で不可能とも思われた操縦を成功させたことに多くの賞賛が浴びせられ、映画にまでなった「ハドソン湾の奇跡」も、豊富な飛行経験をもつ機長だからこそ可能であった偉業であって、彼ほどの経験をもたない機長が瞬時に同様な判断をし、同等の機体操作を行うことができたかを考えると、経験のもつ重要さはいくら強調しても足りないと思われるのも無理はない。
ただ、改めて言うまでもなく、経験は負の側面も持つ。豊富な経験が独自の、状況に応じた、正確な判断を行う「基盤」として働くのであれば良いが、その範囲を超えてそれ自体が判断の「基準」となったり、その範囲を超えた対応を許さない「枠」となったりする場合があることは留意すべきだ。要は次に遭遇する事態に対する判断・解釈・行動に経験が与える影響の程度が問題であり、それには経験する対象・内容をどのように捉えるかがカギとなる。
つまり、経験する内容が毎回、ほぼ同じ内容・水準のものだとすれば、期間の経過とともにその事象についての知識は増え、技能もその範囲では上がるだろうが、同時に「慣れ」も増し、他の事象に対しても同様の対応で済ませれば足りるとの慢心が生じることにもなる。これに対し、毎回の経験が似てはいても別の事象だと認識し対応することで、緊張感が減ることはなく、新たな、別の対応の選択肢が蓄積されることなる。
後者の意識を持ちつづけることが肝要であることは明らかだが、実際には前者に止まる者が多いのも事実だろう。これに似た場面は医療の場を扱った小説や番組でよく見られる。
患者やその家族が、病状や治療内容について不安を抱え、切実な質問を投げかけているのに対し、担当の医師や看護師が、特にその勤務経験が長い場合には、当該症状をこれまでに何度となく接してきた病名によるものだと即断し、患者等の思いや事情を理解することなく、安易な診断・形式的な対応で済ませてしまう。しかも、真の病名が似て非なるものであった場合、それへの適切な治療が行われなかったために、病状が悪化したり、重篤な結果を招いたりするに至る。
このような、慣れによる形式的・機械的な判断・対応が危険をもたらすということを題材にした場面・作品が数多く作られている。それらの中には逆にこうした現状に異を唱える、若く経験の浅い医師の奮闘ぶりを描く作品もあるが、それらも含めてこれらが生まれる背景に、ベテランであるために「慣れ」に陥り、「病人を診ず、病気を見ている」という弊害をもたらすことがある現状に多くの人が懸念を抱いていることがあるのは疑いようがない。
前置きが長くなった。
ここで述べたいのは教師も同様の事態にあるのではないか、ということだ。毎年、何十人もの生徒を対象に、同じカリキュラムでの授業を繰り返す。それが何年にも及ぶことで「ベテラン」と評価される。しかし、教育現場でそのような評価が行われることは正しいのだろうか。問われるべきは、経験年数の長さではなく、それが児童生徒への対応にどのように反映されているかではないか。
多くの教員にとっては、過去の経験・先例に基づく対応でこれまで大きな問題がなくきたことがそれを続ける理由で、それが「ベテラン」を生み、それに価値が置かれる大きな要因となっているのだろう。但し、子どもを取り巻く社会や子ども達の意識自体が大きく変わっている中で従来の方針を続けることにどれだけ有効性があるかは問われるべきだろう。
改めて言うまでもなく、子どもは一人ひとり異なり、誰もがかけがえのない存在である。その考え・興味や行動は似ているようでも、全てがその子独自のもので他とは異なる。それを認識することが「個に応じた指導」の基本であろう。
ところが、いじめによる死亡事故が起きた際に、その原因について「いじめがあったとは認識していない」「いつもの単なる悪ふざけと思った」と語るベテラン教師が多いことを見ると、彼ら/彼女らにとってそれが単なるお題目に過ぎないことが分かる。
仮に、彼ら/彼女らが責任逃れのためにそう発言したのであれば格別(残念ながらその可能性も否定できないが)、本当に「悪ふざけ」だと思っていたのであれば、それこそ大問題だ。普通とは違う子ども達の行動が通常の「ふざけ・遊び」の類型にしか見えず、いじめとの差が認識できないのでは、経験が子ども達の実態を見る上で妨げになっており、これでは「ベテラン」であることは弊害でしかない。
また、同様のことは進路相談の場面でも言える。進学先や進路を決めるのはあくまでも本人であり、教師が行うのはその相談・助言だとされているが、実際には本人が希望する進路について、そこを選んだ理由や熱意を深く考えることなく、成績や過去の進学実績から教師が「適した」と考える選択肢を選定し、それを一方的に指示している。教師はデータという根拠に基づいた判断だという思いがあるのだろうが、そこに「個々に応じた」姿勢の欠片も見られない。
当然のことながら、上述した通り、これは認識の問題であり、経験の長短とは別問題であるとも言えようが、両者に相当の関係があることは否めない。というのも、経験が長いことはそれだけ多くの多様な児童生徒・場面に遭遇するわけであり、それが心身に与える負担は少なくないからだ。従って、それらを類似の事例として処理していかなければ職務を継続することは難しいのだろうし、職歴が長い程、その傾向は強くなるだろう。
ただでさえ、多くの業務に追われ、ブラックと称される環境に日々置かれている中では、有効な保身術とさえ呼べるものであって、一概に非難するわけにもいかないのは確かだ。繰り返し指摘されているように、「働き方改革」が行われなければ何の解決にもならない。
とは言え、一人ひとりに応じた指導の充実が求められ、ICTの導入によりその実施に拍車がかけられている現在、教師がベテランであることは安易に賞賛されるべきことではなく、むしろ逆の価値さえもつことは看過されてはならない。
ベテランであることより、むしろ新人のような、個々の児童生徒に対して緊張感や関心・感動、喜怒哀楽をもって接する姿勢こそが必要とされるのが本来の姿であろう。今さら「老いては子に従う」でもないだろうが、「ある程度の経験を踏んだら、若い教師の意識・感覚を学び直す」位の姿勢が必要だという方向に、あるべき教師像は今後、大きく変換される必要があり、それが若い教師の尊敬を集め、教師への信頼を高めることにもつながるのではないか。

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