(実態の把握で終わる現状)
不登校者数が急増し続けている。文科省の統計によると、小・中学校における不登校児童生徒数は過去5年間連続で増加しており、平成29年には初めて14万人を超え、過去最多を更新したという。学校種別にみると、小学校は3万5032人、中学校は10万8999人となっており、これは小学生184人に1人(0.54%)、中学生30人に1人(3.25%)に相当する。
この状況を前に、様々な原因が検討・指摘されている。しかし、多くは列挙されるだけで終わり、「だから、どうする」ということに繋がっていない(①)。原因分析を踏まえて、現状を解消すべき事態と見るのか、逆に、好ましい方向にあると見るのかを判断した上で、それぞれに応じた方策を講じるという肝心なことが何も行われずにいるのだ。
なるほど、状況はどちらとも判断をつけがたく、対応に苦慮するかもしれない。だからと言ってそれが実態の把握だけに終わっていることの理由にはならない。およそ、行政機関が毎年、多くの時間と予算、人員を費やして自ら調査を実施するのは、その結果を現行施策の評価や新たな方策の立案に役立てるためであって、そうでなければ実施する意味は乏しいと言わざるを得ない(②)。
こうした観点から、不登校の急増という状況をただ眺めるのではなく、これをどうしていくべきなのかを考える参考を供することを目的として考えを述べたい。
(解消を目指すのか)
まず、不登校は「解消」を目指すものだとしよう。
この場合は、不登校を「問題」だと認識していることになるが、不登校という語自体が、「登校」していない状態を意味していることをもって、これを問題視するのは当然だという考えは教育関係者に多いようだ(③)。
即ち、大多数の児童生徒が「正常に」通学している中で、登校しないのは皆とは異なる「例外」であると見なすのである。従って、通学している多数を対象とする対応が優先される一方、不登校という別の行動を取る以上、それへの責は本人が負うべきであり、ある程度の不利益を被るのも覚悟すべきだとする。
実際、不登校状態にありながらも、教師の勧めに従って定期考査は何とか受け、一定の得点を得た生徒に対してすら、「定期考査の得点に関係なく、授業への出席率が足りないため」として成績評価を行わなかった学校があることが報道(④)された。いかに通学が当然・重要視されているかを物語って余りあるが、同様の事例は全国で散見されている。
また、登場人物が皆、不登校児という設定で、昨(平成30)年の本屋大賞を受賞した「かがみの孤城」では主人公の担任教師がクラスのリーダー的な子(主人公が不登校となった原因)の側に立って、彼女に行動を改めるよう一方的に求め続けている様が描かれている。このように不登校を「問題」と捉えている立場からすれば、それは解消されるべきものであり、それに向けた方策が求められることになろう。
(真の原因)
しかし、その際に、原因が本当に子ども達にあるのかを考えてみる必要があるのではないか。なぜなら、冒頭に記したように、「不登校」という語は「学校」に行っていないことを意味しているが、これは同時に「問題の現場は学校だ」、ということを表していると言えるからだ。このことは、不登校でいるために「問題」と見なされている子が、フリースクール等の学校外の施設に通い続けていることには問題視されないことからも明らかである。これらの子達は、皆、楽しそうに学び、遊んでいるというが、学校ではそれができない。学校は自分たちがしたい活動ができない場所であり、(行きたくても)「行けない」場所である。つまり、問題があるのは「学校」の方なのだ。
従って、不登校が増加する状況を解消しようとするのであれば、まず学校を見直す必要があることになる。不登校となっている児童生徒が学校に対して抱えている思い、学校が「行けない」場所となっている要因を特定し、これを除去することが求められる。
このように述べると、「学校が問題とは、日々、誠実に子供たちに接している実態を無視した暴論だ」という反論の声が上がることは想像に難くない。その姿勢・意識は多とすべき面もあるが、逆に、まさにそれが問題を生んでいる面もあるのではないか。
「かがみの孤城」でも、主人公が学校に行きたいと思う気持ちを持ちながら学校に行けないでいるのは、嫌な同級生の存在だけでなく、独りよがりな言動で主人公の不信や反感を募らせている担任の対応の方が大きな理由となっていた。しかも担任自身は全ての言動は主人公のためだと信じており、それが一層事態を悪化させていることに気付いていない。そこでは教師と児童生徒の認識が見事にズレている。
これが小説の中だけのことではないと共感を呼んでいるからこそ、多くの読者から高い評価(と共感)を得ているのではないか。このことをしっかりと踏まえる必要があろう。
だからと言って関係者がこれまで行ってきた、そして日々行っている努力を否定するものではない。このことははっきりと述べておきたい。
要は70年を超える歴史を持つ現行の学校「制度」には、急速に変化する社会や時代の中で、それらにそぐわない部分、児童生徒に負の影響を与えている部分が少なからず生じているのではないか、それを「学校とはこうあるべきだから」といった固定観・先入観のもとに維持しようとするのではなく、生徒の立場に立って点検していく必要があるのではないかと言いたいのである(⑤)。
(子どもが原因なら)
このように述べても、依然として、問題は児童生徒の側にある、という認識を持ち続ける関係者は跡を絶たないだろうが、果たして、そのような認識で、どのような対策が可能と考えているのだろう。
児童生徒を対象として解消策を講じるとは、家庭環境も性格も異なる子ども達一人ひとりが抱える多種多様な問題、結果として不登校につながることとなった要因に逐一対応することを意味するが、そのような方策や対応が果たして可能なのか。
特に、多くの教員が多忙で、授業の準備に割く時間にも事欠いているとされる中で、状況の解消に向け、これまで以上に各児童生徒に注意を払い、必要な対応ができる時間的余裕が持てるのだろうか。加えて、事案としては大きく異なるものの、いじめを苦に児童生徒が自殺したとする事件が発生した際、担任や学校が、児童生徒の死を前にしながらもなお、いじめは把握できなかったと弁明したり、中には生徒からのいじめを訴える声を無視したりする姿がたびたび報道される中では、子ども達への対応を通じた不登校の解消を期待することなど実現(実行)可能性に無理があると言わざるを得ない。
一方で、学校を見直しても不登校の解消にまでは至らないことは十分に認識している。複合的な要因による問題を特定の方策で解消することなど不可能に違いない。ここで挙げたのは、「問題」を解消することまではできなくても、具体的な成果を少しでも挙げることができ、目標に向かって進んでいる過程を目に見える形で示せる方策であることは留意が必要だ(⑥)。
おそらく、文部科学省をはじめとする教育関係者の多くは、不登校を解消したいと願いながらも、そのためには学校を見直すべしとの認識や危機感は持たないだろう。しかし、現状を改善・解消すべきとする限りにおいてそれ以外に方策はないことは理解されるのではないか(⑦)。
(評価するのか)
では、逆に、不登校の急増を評価し、さらなる増加を容認するのか。
急増を好意的・前向きに評価する理由として「不登校に対する社会の理解・認知が高まったから」ということがよく言及される。これは、(周囲の理解もあり)自ら学校に「行かない」という選択をする(できる)子が増えたから、と同義であると言える。
多くの人が余り気付かずにいるのだが、小・中学校は義務教育段階であるものの、ここでの「義務」は親が負っているものであって、子ども達に義務はなく、持っているのは学校に通う「権利」だ。このことが正しく理解されるようになり、無理をしてまで学校に行かない、という選択・権利の行使を子供たちが親の理解の下、積極的にできるようになったことが数値の増加として現われているのであれば、確かに好ましいことだと言えよう(⑧)。
これは見方を変えると、学校教育が目標とする「自ら問題を発見し、解決する能力を育成すること」の成果が具体的な行動となって現れたものと評価することさえできるかもしれない。このような考えの下では、今後も不登校数は増え続けるだろうし、それを積極的に受け入れ、さらなる増を期待すべきだということになる。
(目指す方向)
ところが、この事態を喜んでばかりもいられない。
まず、不登校を認めることが「評価できる」という肯定的な判断は、あくまでも児童生徒を基準としたものであって、学校に対するものは全く異なるものとなることには注意する必要がある。
「行かない」という選択をするまで、彼らにとって学校は無理をしてまで(時には命の危険すら感じつつ)登校を強いられてきた存在であったのだ。多くの税金や人員が投入され、実態の把握が続けられていながら、そこに通うのには多くの児童生徒が無理をしなければならない学校という場がこのままでいい訳がない。
結論として、先に不登校を「問題」とした場合と同じように、学校を見直すことが課題として浮き上がる(⑨)。
繰り返しになるが、戦後、新たな学校教育制度が成立してから70年以上が経過した。この間、社会とともに人々の生活や考え方は大きく変わっており、これらに対応すべく、様々な改革が行われてきてはいる。しかし、いずれも制度の根幹は残したうえでの処置に過ぎなかったのであり、それが現状を生み出していることを踏まえれば、今や幹に手を施す時期にきているのではないか。奇しくも、これまで当然とされてきた宿題や中間・期末テスト、クラス担任等を見直し・廃止することで大きな成果を挙げている公立中学校が注目されていること自体、取り組み対象に「聖域」はないことを物語っている。
また、学校に行かないことを認めるだけでなく、それが不利に働かない仕組みを構築することも急がれる。冒頭に記載したような「冷たい」対応を学校が取らないことは勿論だが、各学校が所属する児童生徒の学業成績や行動の状況についても纏めている内容についても見直しが必要だ。これらはあくまでも学校内での活動の記録であるため、フリースクール等での状況は記載されない。
つまり、彼らの内申書には不登校期間の記述はない。これではたとえ彼らが進学しようとしても、希望校がこのような内申書を基に他の受験生と公平・正当な評価・判定することは到底期待できない。従って、不登校を認める以上、学校がフリースクールとの連携を積極的に進め、そこでの学習・活動状況を適切に把握し、それを内申書に反映することが求められよう。又は進学に際して、フリースクールからの報告書を内申書同様に入学判定の基礎資料とすることも認められるべきだ。
これらを実施するには制度上の障壁・隘路もあるだろうが、児童生徒の場に立ち、対応を迅速に進めることが期待される。
さらに、「不登校」の児童生徒数が急増していると言っても全児童生徒数に占める率からすればまだごく一部に過ぎないことに留意しなければならない。「行かない」という判断をすることはまだまだ容易ではなく、学校に行きたくないのに無理をして登校している子が相当数いるのが実態だ。
2018年12月に日本財団が発表した「不登校傾向にある子どもの実態調査」結果によると、保健室や図書室で過ごす、遅刻・早退が多い、給食だけを食べに学校に通う等の中学生が約33万人いるとされている。文科省の統計による不登校数の約3倍以上であり、日本中の中学生の10人に1人に相当すると考えるとその大きさがよく分かる。彼らは「行かない」という判断・対応ができない(保護者等の理解も得られない)反面、「行けない」までには至らず、ぎりぎりのところで我慢し通学しているにも関わらず、少なくとも校門をくぐっているので、文科省の統計には出てこないでいる。
不登校になった子をどうするかも重要だが、それと同様に、これらのストレスをため続け、不登校になる寸前の状態にいる子達をどう救うのかを早急に検討すべきではないか。その対応を教師だけに頼るのは困難である。
例えば、地域の住民が、通学途中の児童生徒の姿勢や表情から異常を察知するということも重要であり、これはいじめの発見にも有効であると考えられる。また、企業が雇用者の不安や心配を除去する取り組みを進める上で、子ども達の状況を把握し、意見や要望を学校に伝えることも有効であり、そうすることで雇用者の生産性を上げる効果もあるだろう。要は児童生徒を学校だけに任せるのではなく、幅広い関係者が協力して見守り、助けることが欠かせない。
(結論)
社会の急速な変化に伴い、様々な分野で従来の仕組みが限界を迎え、見直しを迫られている。学校教育制度がその動きから逃れられるとは到底思えない。むしろ、子ども達という社会の影響を一番受け易い存在を対象とする組織であるために、感受性と柔軟性が求められるとも言える。
ところが、不登校の急増はそれが立ち遅れ、硬直化・画一化しているため、早急に抜本的な見直しが必要となっていることを如実に示している。それこそが不登校「問題」の本質ではないのか。
(注)
① 文科省は、「小中学校の在籍児童生徒数が減少しているにも関わらず、不登校児童生徒数が5年連続で増加」していることは
「憂慮すべき状況にある」との認識は示している(平成30年12月14日付・文初児生第20号)が、なぜ増加していることが憂慮
すべきことなのかが明らかにされていないうえ、当該判断を踏まえ何を行うかについては何も言及していない。HPや通知にも
不登校となった「後の」児童生徒の支援については記載があるが、憂慮する状況をどう改善するのかは見当たらない。不登校と
なった子への支援を充実すれば、不登校を思いとどまる児童生徒が増えるようになるとでも言うのだろうか?
② 文科省も、不登校等についての調査の目的は「生徒指導上の諸課題の現状を把握することにより、今後の施策の推進に資する
もの」としている。但し、実際に行われているのは前段(現状の把握)のみであり、後段(今後の施策の推進に資する)が行わ
れていないことは①に記した通り。
③ 文科省は、平成28(2016)年9月に通知(28文科初第770号)を発出し、その中で「不登校とは…結果として不登校状態にな
っているということであり、その行為を<問題行動>と判断してはならない」とするとともに、翌年度の調査から「生徒指導上
の諸課題」として扱うようになったが、それまでは長年に渡って不登校についての調査を「児童生徒の問題行動」として実施し
てきたのであって、これが教育現場に与えてきた影響は看過できない。しかも、平成29年度の調査結果を全国の教育委員会等に
通知した文書(上記①)の中でさえ、「不登校というだけで問題行動であると受け取られないよう配慮」する必要があると記載
されていることから逆に、不登校を問題行動であるとみなす状況が根強く残っていることを文科省が認識していることが分か
る。
④ 令和元年6月24日西日本新聞
⑤ かつて、校内暴力等が頻発し、社会的問題となったことに対して、その背景に「詰め込み」教育による弊害が指摘され、これ
を解消するためにゆとり教育が提唱されたが、その方針が転換され、学力向上を掲げ、様々な取り組みが行われていることが再
び児童生徒(及び教師)に過度の負担をかけていることと、近年の不登校増との因果関係についても検証する必要があるのでは
ないか。
⑥ 不登校を問題と認識して、その解消に取り組む以上、「いつまでに、どの程度まで」改善(減少)を目指すのかを明らかにす
るとともに、その達成状況を明らかにする必要があることは言うまでもない。
⑦ 新しい学習指導要領の下では小学校からプログラミング教育が必修化され、これに必要な環境整備が図られることとなってい
るが、そもそも機器・道具であり、目的を効率的に処理する手段であるコンピュータを学校で活用するのは全ての児童生徒が授
業を理解し易くするためであることを踏まえ、これを不登校解消(特に、授業から落ちこぼされ不登校となった児童生徒の解
消)に利用するという方向がもっと考えられるべきではないか。
⑧ 「不登校」という語がもつネガティブなイメージを改めようと、これに代わる呼称を募る動きもみられる(令和元年8月21日
朝日新聞デジタル)など、認識も大きく変化しつつある。
⑨ いじめを苦に自殺した事件に関連した議会での質問に対し、当該市の教育長が「学校は命をかけてまで行く所ではありませ
ん」と答弁したことが報道(朝日新聞令和元年9月13日)された。苦しむ子たちに投げかけられた、その発言自体は評価される
べきものであろうが、一方で、教育行政の責任者として、学校を子ども達が「命をかけてまで行く所」としていることについて
の認識・反省・対応こそ問われ、答弁すべきであるのに、こうしたことが語られることはないのだ。

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