英語教育の謎と懸念

英語教育に対する基本的認識のズレ
 我が国の英語教育については、「中高(大)と6年(10年!)も勉強しながら、効果はほとんどなく、挨拶も十分にできないどころか簡単な単語も書けない者が大学生にさえ多くいる…」といった批判が従来から数多く寄せられてきている(①)。この間に教師・生徒が費やしてきた多くの労力・時間・経費等が無駄や浪費に終わっていることは「残念」の一言では到底済まされない。

 ところが、文科省は今回の学習指導要領の改訂に関する文書(②)でも先ず、「現行の学習指導要領は、…<聞くこと><読むこと><話すこと><書くこと>などを総合的に育成することをねらいとして改訂され、様々な取り組みを通じて充実が図られてきた。」として危機感より先に肯定的評価を行っている(③)。彼我の認識の差を明らかに示す一面であろう(④)

本稿の目的
 これまでの取組に楽観的な評価を下す一方で、答申は「グローバル化が急速に進展する中で、外国語によるコミュニケーション能力は…生涯にわたる様々な場面で必要とされることが想定され」ることを前提に、「その能力の向上」に向けた改善事項を列挙している。また、今回の答申とは別に、高大接続改革の一環として新たな共通試験が導入される中で、英語については民間試験を活用して上述の4技能を判定することになった。

 こうした対応は、今後の社会状況の変化を念頭に置いて、有識者による審議を経て取りまとめられたものである。ところが、それらは本当にこれからの時代に相応しいものなのか。(語学)教育関係者を中心に行われた議論でこれからの社会像を的確に把握し得たのか疑わざるをえない。

というのも、これまでの英語教育(政策)は
 (1)目的(なぜ/why)、
 (2)目標(何を/what、どこまで/where?)、
 (3)手法・メソッド(どう/how)
が明確でないことに根本の問題があるのではないかと思われるからである。本稿はこの視点から現下の動きについて論点を提示し、更なる議論を惹起しそれが深まることで、英語教育(政策)の見直しが進むことを期待するものである。

英語教育の目的とは?
 まず、英語教育をなぜ実施しないといけないのか、その必要性・意義はどこにあるのか。それがただ「必要・重要とされるから」という程度の曖昧なままにも関わらず、その上に様々な方策が展開されていることが議論を迷走させ、問題発見・改善・解決を困難としている。答申でもこれからの国際化する社会では英語が必須となるということが当然のように語られているが、果たしてこれは具体的にどういう状況を意味するのだろうか(⑤)。

 更に「これからは英語を身につけないと国際化する企業で昇進することは不可能だし、日本も国際社会で後れをとるようになる。こうした事態から一刻も早く脱却して個人はもとより、国が発展するために英語が不可欠である」として、対応の緊急性・重要性が語られる。しかし、こうした説明は現下の(そして将来の)若者にどれだけ説得力をもって受け止められるものだろうか。

 まず、上記のような発言をするのは多くが、戦後の復興からバブルまで右肩上がりの時代を経験してきている層であることに留意する必要がある。「Japan as No.1」ともてはやされた時代を懐かしみ、最近の国際的な政治・経済面での我が国の地位低下を嘆きながら、「あの栄光を再び。Make Japan Great Again!」という気持ちなのだろう。それが彼らにとっては当然の想いなのだと理解することはできる。しかし、これからの日本を支える(若手)社会人・大学生・受験生・高校生・小中学生等は皆、生まれたときからずっとバブル崩壊後の、日本が右肩下がりの時代「失われた30年」を生きてきている。

 「戦争を知らない子供たち」というかつての流行歌の歌詞をなぞれば彼らは「栄光を知らない子供たち」なのだ。このため彼ら(に限らずもはや国民の大半)は将来に対する不安が強く安定指向となっている。受験校も就職先も高望みをせず、賃金が上がっても貯金に回し、留学や海外渡航もしない(パスポートすらもたない(⑥))というのが共通する意識である。

 さらに、世界的には人口の1%が世界の富の99%を所有しているとされるように、階層が大きく二極化している上、貧困層の拡大と固定化が進んでいることがこの傾向に拍車をかけている。こうした社会を生み、広げてきたのは今まで社会を担ってきた層である。これらの人達には現状を生んだ責任とその改善を行う義務があるはずなのに、それには目をつむりながら、ノスタルジーから「英語で昇進だ、日本の地位向上だ、復活だ」と叫んでいる。

 そんな声が今後の生活に怯え不安を抱え、どうやって現状維持していくかに腐心している若者たちにどれだけ伝わり、我が事として受け止められるだろうか。しかも、政府自体が、地方創生の名の下、都心(本社が集積する)より地方での(組織・昇進とは無関係な)就職・(心身に豊かな)生活を推奨している。これと右発言とはどう整合して理解すれば良いのだろう。希望を捨てろ、と言っているのではなく、現状及び将来の展望をしっかり見据えた議論が必要なのではないのか。

 また「企業で昇進しトップを目指す」ことを日本人全員に求めること自体、一人ひとりの興味関心・個性の伸長を目指すという人材育成(教育)上の基本方針と矛盾する。

 なるほど、これを目標にする人は社会に不可欠だが、量的には少数に過ぎないだろう。従って、彼らに相応しい(彼らに必要な)英語教育を実施する任を負うのも一部の大学等に限られる。そこでは要望に応えるために、これまでの実績・教育成果の反省の上に抜本的なプログラム改革を行うことが求められるに違いない。

 他方、他の多くの大学等での事情は異なる。我が国では分厚く・優秀な中間層が各界で活躍し、彼らが発展を支える原動力となってきた。こうした人材を育成・排出してきたのは高等教育機関の大半を占める私立大学である。その功績は高く評価されるべきであり、それらでは今後も建学の精神の下、こうした人材の育成を続けていくだろう(⑦)。

 従って、「トップを目指す」という、これらの多くの大学が目指す方向とは違い、各大学のミッション・カリキュラムポリシーにも反する人材を育成するための英語教育が一律に求められることに疑問を感じるのは当然である。
 
 一方で、多くの大学での英語教育が現状維持で良いということにはならない。というのも、これまでの英語教育の成果が芳しくないことを別にしても、英語教育のもつ意味自体が変わっているからだ。これからも外国語を使わずに済ませられる人は相当数いるだろうし、加えて日常会話や簡単な交渉程度であれば同時翻訳機で手軽に済ませられる時代、換言すれば、英語を無理に身につけなくても済む時代がすぐそこまで来ている。

 この状況を踏まえ、中堅層を育成する多くの大学では、学生に英語を何のために教育する必要があるのかをそれぞれがしっかりと検討・整理する必要があろう。そしてこれは大学よりも、国によって教育内容が規定されている初等中等教育段階においてはなおさら重要である。英語教育(政策)の目的・理由(なぜ、何のために)の「具体的」内容が根底から問われているのだ。

不明瞭な目標
 本論は英語教育政策を主な対象としているので、議論を初等中等教育に移す。今回の答申では、新たに「外国語教育において求められる資質・能力を育むために必要な教科等の目標を設定」するとともに、「国が定める領域別の目標については…外国語教育の目標に沿って、高等学校卒業時に求められる資質・能力を明確にしたうえで、それぞれの学校段階等において設定することが大切である」ことを明確に記載して目標のイメージも添付している。取組を進めるうえで、到達点をあらかじめ明確にしておくことは極めて重要であり、このような対応がされたこと自体は高く評価されるべきものである。

 しかし、各学校段階における目標を設定する上で基準となる高等学校卒業時に求められる資質・能力の内容・程度が曖昧である。なるほど、答申では高等学校卒業段階では「外国語を通じて、情報や考えなどを底角に理解したり適切に伝えたりすることができる力」を育成するとし、具体的レベルとして「必履修科目でCEFRのA2レベル相当、選択科目で同B1レベル相当」が想定されているが、なぜこれらの力・レベルが高校卒業段階で必要とされるのか、その理由・根拠がどこにも記載されていない。これは致命的ではないか。

 なぜなら、これらは各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の最低基準であり、法的拘束力をもつ学習指導要領に反映されているからであって、高校進学率がほぼ100%に近いことを踏まえれば、それはそのまま国民が受ける英語教育の最低水準を表していることになるからである。国として全ての国民にこの程度の英語力が「最低限度」必要だと示している以上、その根拠を明らかにするのは当然である。

 また、根拠を提示することで、教員と児童生徒(及び保護者)の双方がこれまでのように当該目標を単に与えられた(押し付けられた)ものとして受け取ることなく、自ら理解・納得することができる。結果、達成に積極的に取り組むようになることも期待されよう。このように極めて重要な意味をもつ事柄である故、策定には多くの知見に基づく検討を必要とする。

 まず「グローバル化が進む」と安易に述べて済ますのではなく、それがどのようなものであるかを明らかにする必要がある。即ち、これからの高校生が社会で活躍する頃には
 ㋑ どの程度の人が外国(英語圏)に赴き、現地で活躍するのか
 ㋺ どれ程の外国人が日本を訪れ、彼らと会話等をする者はどれ程いるか
を想定する必要がある(⑧)。

次に、例えば外国に赴く際に、旅行の場合と商談や発表の場合では、コミュニケーションの内容・レベルには大きな差があることを踏まえ、
 ㋩ 外国語を用いる場面ごとの内容・水準及びそれぞれの規模(時間・人数・回数)
を整理する必要がある。およそ国民にとって必要な水準、すなわち、外国語を使用する場面として遭遇することの多い(確実な)場面とそこで必要となる(又は、頻繁には生じないが業務上・生活上・災害からの避難上不可欠な(⑨))技能・レベルは、これらを踏まえた上で設定されるべきであろう(⑩)。「身につけておいた方が良い・望ましい」といった理由で、安易に技能やレベルが設定されることは避けなければならない。

 これだけでも大変な作業だが、「最低基準」を設定するには、さらに考慮すべき事項がある。具体的には、㋑㋺を想定する上で、
 ㊁ ビジネス環境や産業構造の変化、通信技術や交通手段の発展状況、観光・外国人政策の影響等を勘案しなければならない。また、㋩に関しては
 ㋭ AIやICTの発達度
も想定しておく必要がある。

 既に、多言語に対応したポータブルな通訳機が開発され、空港の売店などで接客に使われている。このような技術は益々進むだろうし、関連商品の開発も一層進み、メールやテレビ電話等での会話は自動翻訳されていくようになるに違いない(⑪)。

 さらに、忘れがちなことだが、上記㋑から㋭を総合的に検討することで明らかとなる高校卒業段階、即ち、今後の国民に共通して必要な内容・水準(⑫)の全てを高等学校卒業までの間で教えることが可能かを判断しなければならない。限られた授業時間の中で教えることが可能な範囲(実行可能性feasibility)を踏まえて(⑬)、ようやく「最低」基準としての内容・水準が設定される。

 目標とは、こうした多くの知見に基づく、膨大な作業を経て初めて策定されるべきものだ。ところがこれまでこうしたことはほとんど行われていないため、目標として掲げられているものも抽象的で、単なる「希望」や「憶測」に過ぎない。目標が明確でなければ具体的手段・方策も定まらず、その後の検証・見直し及びそれにもとづく実質的・効果的な改善も行い得ない。即ち、これが全ての問題の根幹と言えるだろう。

指導法(メソッド)の検証
 小学校での教科化により、今後、ほとんどの国民は英語を8年以上勉強することになる。果たして、これまでの教育が期待した成果を上げずにいる中で、年数を延長することで状況は改善されるとなぜ言えるのだろうか。なるほど、内容面について様々な改善を行う旨が述べられてはいるが、良く見ると「一層」や「更に」と言った表現が随所に見られるように、従来の指導法を前提とした改善・充実に終始している。従来の英語教育の成果を踏まえれば、その指導内容・方針について、抜本的な見直しが必要であることは明らかであるのに、だ。

 また、最近はこれまでの英語教育は「読む・書く」という文字が中心であったため、実用性に欠け、これがTOEFL等の成績が諸外国に劣る原因だとして「聞く・話す」という音声中心にし、コミュニケーション力を育成する必要があるとされている。

 ところが、鳥飼玖美子氏が検定試験の結果を分析した結果(⑭)によると、
  「日本人は文法には強く英語を読むのは問題ないけれど話せない、という前提は、過去のもの
 であ」り
これまで過度に重点が置かれてきたはずでありながら
  「実際には、文法も自慢できるほどではなく、読む力が乏しいから結果として全体のスコアが
 低いというは…一目瞭然
であるとして、
  「日本人のTOEFLスコアはお隣の韓国や中国に比べて、どうもパッとしない。…弱点は文法と
 理解力の欠如、つまり、基礎力に欠け、読む力がない
と結論づけている。つまり、「リーディング・セッションが弱い」ことが問題なのであり、
  「今後、日本人にとって最難関となるのは、おそらく英語を書くこと、ライティングであろ
 
としているのだ。これらは、従来の教育の欠点を示すだけでなく、進めている方向性にも問題があることを明らかにしている(⑮)。こうした客観的なデータを踏まえれば、一刻も早く見直し・検討が求められることは言うまでもなかろう。

 ではどのような検討・対応を行えば良いのか。まず、これまでの英語教育を振り返り、それらがなぜ効果を挙げずにいるのか、どこに、どのような問題があるのか、を虚心坦懐に点検する必要があろう。その際、従来の理念・方針に少しでも拘泥する気持ちを残したままでは到底、これまでの延長から抜け出すことはできないことに留意することが大事だ。その上で、新たな指導法を模索することになるが、ここで筆者が在外公館に赴任する前に語学研修を受講した外務省研修所での知見を参考に供したい。

 その授業は外国人教師が担当し、彼らの大半はアメリカ人であった。ところが、使われたテキストや教材は英国で編集・出版されたものだったのだ。当然、発音や単語等は教師のそれとは異なり、英国式となっている。
 そこで「あなた方はアメリカ人なのに、なぜ英国の教材を使用しているのか?」と尋ねたところ、「英国のものの方が優れているから」との単純・明快な答えであった。その理由をさらに問うてみると、「イギリスは、英語を話さない(母国語としない)国の人に外国語としての英語を教える方法(メソッド)に優れている」とのことだった。イギリスは過去、多くの国を植民地としてきた歴史をもち、それらの地では統治上の理由から英語を短期間で、半ば強制的に普及させる必要があった。そこで地元の人たちにとって外国語である英語を効果的・効率的に教える方法が発達してきたという。 
 
 他方、アメリカには世界中から外国人が集まっているが、その多くは自らこの国(アメリカン・ドリーム)を目指した者である。また、外国人向けの様々な指導法が開発されているが、多様性に対する理解・認識が進んでいる文化・国柄もあって、どうしても英国のそれの後塵を拝せざるを得ない、ということらしい。外務研修所では、こうした事情を背景に開発された指導法の良さを十分に認識した上で教材が選ばれていた。
 我が国での英語指導法もこの点から見直す必要があるのではないか。

 これまで我が国ではやれ文法だ、解釈だ、といった「形」についての議論が多かったが、それよりも「外国語としての英語」を教えるには、何を、どういう順序で、どこまで教えるのが効率的なのかという指導用(メソッド)を英国の方法を参考にして組み立てることから始めることは有意義なのではないか。一見迂遠に見える方法だが、それこそがこれまでなし得なかった改善・向上をもたらす最短・最善の道に違いない。これまでの汚名を返上すべく、比較言語学や英語教育学等の専門家の精力的な取り組みを期待する次第である。

早期導入(前倒し)の根拠
 答申を受け、新たな学習指導要領では、「外国語に慣れ親しみ、外国語学習への動機付けを高め」るために、小学校中学年から外国語活動を導入するとしている。これまで小学校高学年で実施していた活動型の指導を中学年に前倒しするとともに、高学年では新たに「教科」として外国語を導入(教科としての教育年限を延長)するという。

 果たして、この判断・決定は、これまでの外国語教育によって明らかとなった、どのような成果や課題に基づいてなされたものなのだろう(⑯)。
 加えて、これらの対応によって、外国語教育は今後、どのような効果・成果が新たにもたらされると見込んでいるのだろうか。さらに、平成元年に生活科が導入されて以来、中学年から社会と理科という新たな教科の指導が行われることになった。
 また、「総合的な学習の時間」も新たに始まる。これらに加えて、外国語「活動」とは言え、教科相当の時数(年間35単位時間)の指導が加わることになるのだ。小学校中学年段階でこれだけの変化・負担にたえられるのだろうか。心身への影響はないのだろうか(⑰)。こうしたことについて一切言及がなく根拠も不明なままという実態からは、始めに導入ありきとの印象すら受ける。

 顧みると、これまで学習指導要領が改訂されるたびに、多くの教科から「重要な(?)教科には多くの時間が割かれるべき」との声があがり、授業時数の増が求められ、削減には反対が叫ばれてきた。それらの根底には今回の判断同様、「教える時間が長いほど、子供たちの理解が進む」という考えがあるようだ。これは、関係者の間では半ば常識と化しているかのような趣さえある(⑱)が、その効果を証明するデータはあるのだろうか?冒頭に掲げた批判はまさにこの考えに対する実態からの明確な反論ではないのか(⑲)。

 そもそも、これらの判断・対応は政策という形となって実施される。政策とは「(個人や団体が)目標を達成するために手段としてとる方法(大辞林)」である。従って、目標によって取るべき方法は変わるのが当然である。
 ところが、上述したように目標自体が明確な根拠を持たずに設定されているので、どの方法・手段が適当であるかの最終判断ができない。加えて、これまでの取組の成果・課題が不明なために、新たな政策が成果の見込みや実施に当たって留意すべき事等が不明なまま実施されることとなる。これでは、言葉を換えれば「効果があるか分からないがともかく実施せよ」と現場に求めているに等しい。

早期導入への懸念
 外国語活動及び教科化の早期導入(前倒し)は、「なぜ」「どの程度」有効で、「どのような」効果・成果をもたらすか等が不明なまま、ただ「必要である」との理由から実施されることとなっている。これでは「実施したら幸い、効果があった(成果が上がった)」という結果が偶然に生じることを期待するばかりである。

 ところが、現実は既にそのような甘い期待に水を差している。即ち、我が国においては学年を上がるにつれて自己肯定感・自尊感情が低下しており(⑳)、また、各教科の正答率が低い児童生徒ほど、「自分には、よいところがある」と回答した割合が低いという実態があることが明らか(㉑)なのである。

 そもそも答申自身が「学年が上がるにつれて児童生徒の学習意欲に課題が生じるといった状況」にあると指摘している。答申は「話したり書いたりして表現することを繰り返すことで、児童生徒に自信が生まれ、主体的に学習に取り組む態度が一層向上する」としているが、これまでの英語教育では多くの児童生徒の正答率が低く、想定した成果を挙げるに至っていない。
 このため、多くの児童生徒は英語について学年が進むにつれ自尊感情が低くなる状態にあると言える。ところが、不十分であっても話したり書いたりを繰り返せば児童生徒に自信が生まれるようなことを前提にして導入が進められているのはこうした実態を無視しており、これでは逆に自信を喪失し、自己肯定感がさらに低くなる児童を多く生むことになる危険性の方が強いのではないか。

 また、高校生に「英語を苦手と感じるようになった時期」を尋ねた結果、中学校に入った時期(中1前半)とする回答率が前期(中学校に入る前)から急激に上昇した挙句、最も高くなっており、また学年を問わず高い数値となっている(㉒)。

 答申では、この背景には「(小学校で)音声中心で学んだことが、中学校の段階で音声から文字への学習に円滑に接続されていない(㉓)」ことがあると指摘しているにも関わらず、その改善方策を明らかにしないまま「小学校高学年において<聞くこと><話すこと>の活動に加え、<読むこと><書くこと>を含めた言語活動を展開(㉔)」するとしている。文字学習への円滑な接続という肝心な事柄について改善がなされないまま教科として導入されるのであれば、これまで多くの児童生徒にとって英語が苦手になった時期が単に小学校高学年へと前倒しになるに過ぎない。
 換言すれば、かねてから問題とされながら解消されなかった小中学校間の接続の問題を小学校の中高学年間に移し、ひいては英語嫌いの時期の早期化を招くだけになるのではないのか。

早期導入するなら
 一般に外国語(英語)教育を導入する際の考え方には二つあると言われる(㉕)。一つが英語そのものを教えるという考え方であり、FLES(Foreign Language in Elementary School)と呼ばれる。他方が外国語体験であり、FLEX(Foreign Language Experience)とされる。これまで述べた内容は主に前者の観点からの懸念であり、そもそも言葉を身につけさせることが基本となっていながら、「どこまで」「なぜ」という目標の設定があいまいなことが問題の根幹であった。

 これに対して、後者は外国語そのものを学ぶのではなくて、「国際理解をしていくうえで英語を体験しよう」というものである。この内容は各学校段階の学習指導要領に共通して「外国語の背景にある文化に対する理解を深め」ることが外国語教育目標の一つに記載されている。しかし、複数ある目標のなかの最後の項目の中の一部として述べられているに過ぎず、重きが置かれているとは言い難い。掲げているのが「外国語」教育ということなので、後者への関心が弱くなるのは当然と言えよう。

 ところが、早期導入という観点からは重点が変わる。これからの社会を考える際、「グローバル化」が主要なキーワードとなるのは誰もが認めるところだが、そこで必要となるのは外国人とのコミュニケーションに限らない。言葉(単語や文法等)の違いのもたらす負担は上述したICTの進歩等によって相当程度軽減していくだろう。
 それよりも、地理的・歴史的・文化的な違いがもたらす、これまでの日常生活では触れること、意識することの少なかった多様な考えや行動に触れ、それらを理解し受容した上で適切な対応をしていくことが必要となっていく。事実、これまで世界を覆っていた西洋中心主義的な考えが限界を迎えていることから、世界各地で民族や宗教に関わる紛争が起き、人種・民族やLGBTに関わる事柄が人々の間で大きく意識されるようになっている。こうした動きに対応するには関連する知識を記憶しているだけでは足りない。むしろ不十分な知識が返って問題行動につながったり、多くの批判を浴びたりする結果を招くことになる。

 ある研究結果によると差別意識は誕生後間もなく芽生えるという(㉖)。従って、これへの対処も早期に行う必要があろう。ネルソン・マンデラ氏が自伝に記し、オバマ元大統領がTwitterで引用したことで話題になった言葉(㉗)に従い「愛することを教え」それらを身につけさせるのだ。自分の周囲には性別の違いや年齢層の違う様々な人間がいるのと同様に、多様な人間がいることを早くから理解し、当然のことと受け入れることで、彼らへの認識が根本から変わるようになる。

 外国語活動を早期に実施することは、それを行う上で極めて有効な機会となるだろうし、そのためであれば意義があろう。そして、これは異質な者を排除しようとする意識が大きな要因となっているいじめ問題の発生を防ぐ上でも有効であるに違いない。

小学校での実施体制
 新たな学習指導要領の下で英語教育が導入されることへの懸念は、教育内容や目標だけに止まらない。これらを実施する体制にもいくつかの問題を抱えている。

(授業時数)
 まず、授業時数が足りない。いわゆる「ゆとり教育」からの方針を転向して以降、授業時数は精選・削減されることなく、追加のみが行われてきた結果、既に週のコマ数は限界に達している。このような中で、小学校高学年での教科化が導入される。当然、これに充てることができる時間的余裕はない。教科化を打ち出しながら、それを実施する時間がないことから、苦肉の策として「短時間学習等の活用など、弾力的な時間の設定や時間割編成」を行うことを求めている。
 しかし、FLESとして行われる教育が、「10~15分程度の短い時間を単位として繰り返し教科指導を行う」ことで十分な効果を上げることは実証されているのだろうか。仮に当該指導が相応の効果を上げているなら、なぜ、これを英語だけで実施し、他の教科で実施しないのか。明らかに「年間35単位時間増となる時数を確保する」ことばかりが念頭に置かれていることは明らかであり、教育上の効果などは二の次となっている。本末転倒と言わざるを得ない。

(教員)
 また、担当教員(数・能力)が絶対的に不足している。答申では「小学校については、教育委員会、大学等と連携し、教員の養成・採用・研修の一体的な改善の取組を進め」る必要があるとしているが、平成20年の小学校学習指導要領の改訂によって、小学校高学年に外国語活動を位置づけ週1コマ実施してから10年近くが経過している。その際も将来的な教科化は念頭にあったはずなのに、この間、一体何をしてきたのだろうか。
 「活動」としての実践を通じ、週35時間の指導を行うに足る知識・技能を身につけるには、どの程度の時間の研修が必要なのかの知見を集めていないのか。そして、教員の超過勤務が問題視され、働き方改革が求められる中にあってこれら研修の扱いや改革との整合をどうするのか、を整理しておくべきだろう。体制が整っていることが確認されてから実施に移されるべきであるのに対して、対応が全て後手後手であるのは明らかだ。  

 しかも、善後策となる優れた取り組みは既にあったにも関わらず、これについての検討が進められずにいる。実は、平成10年に学習指導要領が改訂され、「総合的な学習の時間」が設定されたことに伴い、全国の小学校で英語活動が行われることとなった当時にも、小学校教員の大部分が英語を教える資格をもっておらず、英語を教えることに不安を感じていた。
 この状況に対して「小学生に英語を指導する技能を持ち合わせている民間の指導者を育成・認定し、教育現場に供給できる体制をつくり出すことが必要だという考えから、英語教育にかかわる研究者・教育者をはじめ、企業経験者が主体となり、民間の教育関係諸団体が協力して…2003年4月に「小学校英語指導者認定協会(J-SHINE)」が設立され(㉘)」ているのだ。

 「J-SHINEは同(2003)年9月に内閣府から正式に認証を受け<特定非営利活動放任(NPO)>として活動を始め」ており、これまでに4万人の資格認定を行っている。既に民間でこれだけの活動が行われているのに、公教育の現場では彼らが十分に活用されずにいる。同協会が平成30年に行った調査(㉙)によると「地域人材を採用している自治体は約40%」に過ぎない。しかも「前回の訪問調査(2012年)では37.8%の自治体で採用されて」いたのに、ほとんど改善されていない。

 また、採用された者の待遇は「70%以上の自治体が<時給」>で雇用をしており」、月給での雇用は3%未満という状況である。「指導体制の整備が不可欠」だとして、教員負担の増につながる研修の改善・充実を訴えているが、それよりこれら人材の採用と彼らの積極的な活用を可能とする制度改正の方が現実的・効果的であるのに、対応が進んでいない(㉚)。彼らは教員免許を持たず、教育者としての経験や技能に欠けるとの批判・懸念の声が上がることが予想されるが、少なくとも国が認可した法人における一定の基準を満たした資格を取得している(㉛)のであって、何よりもコミュニケーションツールとしての英語を習得するには、これまでのような文字や文法主体の指導より、実際に「外国語を用いた体験的な活動」を行うことが求められている。その際、重要となる場面の設定やそこでのコミュニケーンの内容・程度の選択等は当該経験を有する人材による方が好ましいだろう。これらを踏まえた上で、外部人材の積極的活用こそ進める必要があることは明らかであり、これは同時に学校教育の在り方を見直す契機となる可能性を有していると言えるのではないか。

環境整備
 日本語同様、英語を始めとする外国語も言語である以上、人々の思想や意思などを互いに伝達しあうための手段(コミュニケーションツール)である。従って、これらを効果的に習得するには、常に触れ、具体的な場面で反復して使用することが重要である。
 この点からもわずかな授業時間内の教育だけで英語力、しかもコミュニケーション力を育成しようとするのに無理があることは明らかである。語学習得にはその言語が使用されている国・地域に滞在・生活するのが効果的だとされるのも、当該言語に関連する音や表現に常に触れ、日常的にそれを使用することがいかに有効かを物語っている。  

 即ち、外国語習得を真に進めようとするのであれば、わずかな授業時間の中だけで対応しようとするのではなく、このような社会全体での対応・環境整備が不可欠である。それには既に述べた外部人材の登・活用と合わせ、多くの機関・団体等の理解・協力が必要となる。
 既に、多くの通りや店内・車内の標識や看板、放送等で外国語が併用されており、新たに導入された出国税では、これを財源として外国語表記を推進することになっている。東京五輪の開催が近づくにつれ、こうした動きは次々に進んでいるが、それが全国的な広がりを見せているかは疑問である。従って、各地でこうした動きが進み、外国語に触れる場が整うよう、関係者の理解・対応に向けた積極的な説明・依頼を行うことが急がれる(㉜)。

 一方で、「隗より始めよ」とも言う。関係者に理解・協力を得る前に、まず、学校内の環境を整備することが必要であろう。限られた授業時間内だけで効果を上げようとせず、校内の掲示や放送で外国語を使用する機会を増やすとともに、関連する学校行事を設けることなどを考えるのも有効であろう。

 さらに、他教科においても外国語による教材を使用したり、用語に外国語表記の注を付けることなども考える余地があるのではないか。こうした学校側の努力と対応があって始めて、外部の関係者の理解と協力が得られるのであり、こうした両者の連携が形成されていくことで児童生徒にとって有効な環境が構築されていくのだ。 

4技能試験について
 2021(新元号3年)から導入される新共通テストでは、英語において4技能試験が実施される。これについては既に、異なる試験間の得点調整、交通費を含めた受験のための費用、受験機会の不均衡等数々の事項が問題視されているが、ここでは視点を変えて、まだ大きくは取り上げられていない点を指摘してみたい。

(試験と受験者の関係)
 試験とは本来、学習の成果を判定するものである。当然、新試験はそれまでに受験生が受けてきた教育の成果を調べることになるが、当面の受験生が受けてきたのは、現行学習指導要領の下での教育である。それは答申が自ら指摘するように「中・高等学校においては、…<話すこと>及び<書くこと>などの言語活動が十分に行われていない」ものであり、第2期教育振興基本計画で掲げた目標を達成できずにいる。
 そのような教育を受けてきた生徒の4技能を判定することにどのような意味があるのだろうか。問題視されてきた「話す」や「聞く」を中心に、およそ判定に足る成績を得ることが難しいことは容易に想像がつくし、逆に、これらと「読む」「書く」との間に大きな差が見られない場合には後者の教育効果が問われることになろう。常識的に考えれば、4技能試験の導入は今回の改訂によって小学校から教科としての外国語教育を受けた児童の学習の成果を測るべく、彼らが大学受験期を迎える時期からとするのが合理的ではないか。

(4技能判定の意味)
 新共通テストでは、これまでセンター試験で実施してきた「読む」「書く」「聞く」に加え、「話す」能力を判定することとなった。英語の能力を総合的に判定する必要があるからというのがその理由だが、「話す」を判定に加えることで、英語能力の評価の正確さがどれ位増すというのだろうか。そもそも、英語の能力は英文和訳と和文英訳だけで完璧に測ることができるとされる上、「話す」はバイリンガルな環境にいた帰国子女など、一部の受験生が極めて有利になる(㉝)上、4技能の判定を求めた経済界(㉞)で、自社の入社試験で4技能を課しているところがどれくらいあるのだろうか。
 英語を社内公用語として話題となった楽天ですら、入社試験では英語試験を課しておらず、TOEICのスコアも必須としていない(㉟㊱)。これから大学教育を受ける生徒に対して、総合的な英語力を身に着けているかを判定する必要があると訴えておきながら、自分達はそれを採用時に実施していない。明らかな矛盾が横行している。

(試験に期待する効果)
 4技能試験を導入する意義として、これにより高校段階での教育が改善されることを期待しているとの趣旨が述べられているが、既にセンター試験でリスニングを導入してから10年が経過している。先の論理によれば、この10年間で高校の英語でのリスニング教育は改善され、能力の向上が見られているはずであるが、実際には確たる成果・変化が見られずにいる。それなのに、なぜ4技能試験は成果を上げると言えるのだろう。
 また、これまで、日本人は文法にばかり気を使い、間違った文章を口にすることを恥じるためにスピーキングにためらいがあるとされてきたのに、これら意識・教育方法や内容についての改善がないまま、スピーキングの判定をし、それが合否判定に用いられるとなれば益々スピーキングに対する抵抗感・拒否感が増すのではないだろうか(㊲)。教育政策には、これまでも述べてきたように、データや根拠がないにも関わらず、有識者や文部科学省の官僚による見込みと期待で導入され、その後の成果が検証されていないものが散見されるが、ここでまた同様の「愚」が繰り返されることを危惧せざるを得ない。

(学習指導要領等との関係)
 導入される民間試験はそれぞれ実施の目的が異なっており、仕組みや測定する能力も様々である。受験に要する費用や受験機会(回数・場所)にも大きな差があり、多くの関係者が抱いている公平性等に対する懸念は全く解消されずにいる。これらはいずれも重要な事項であり、早急な説明・解消が求められるものだが、これら個別具体的な課題の前に先ず、各民間試験と学習指導要領との関係が整理されていないことは大きな問題である。各試験の目的・内容と学習指導要領及との関係はどう整理されるのかがはっきりしない。
 各試験の内容・目的と学習指導要領との関係について、国立大学協会からも指摘が行われているが、文部科学省からは未だに明確な解答がないようだ。およそ法的拘束力をもつ文書として国が学習指導要領を定めている中にあって、それとは直接関係のない内容・水準について国(独立行政法人)が行う試験で判定することの意味はどこにあるのか。これが許されるのであれば、他の教科においても民間検定試験によって高校卒業時の学力を判定すれば良いことになり、わざわざ国費を投入して共通試験を実施する必要がなくなり(入学に際して学生にどのような能力を求め、それをどのような方法で判定するかは大学に委ねられている)、ひいては学習指導要領で最低基準を定める意味すらなくなるのではないか。

(試験後)
 新たに4技能が判定されることになりながら、それがどのような成果となって現れるのかを期待しているのか(どのような結果がでれば高校英語教育は認められるのか)、その結果を今後どう活用していくのか(結果によって今後の英語教育の何が、どう変わる可能性があるのか)が曖昧なままであることは英語教育現場に大きな不安と混乱を生じさせるだろう。それでも時間や人員・財政的な不足の中、高校側はこの4技能試験に対して迅速に対応することが求められている。同情を禁じ得ない。 
 一方で不思議なことに、これら判定を経て入学した新入生に対して大学側がどのように教育を改善しようとしているのかについてはほとんど聞かない。4技能の状況を踏まえて、それらに応じた教育が望まれるだろうし、それが当該判定を行う意義であるはずにもかかわらず、大学側で対応がほとんど行われないのであれば、何のために判定を行うのか疑問である。
 
 本来の入試とは学校教育の成果を「評価」し、能力のある者を入学後の教育の対象とするという教育活動を助けることを目的とするものでありながら、我が国では従来から単に受験生を落とすための手段としての「選抜」機能のみが注目されてきた(㊳)。今回の取組も入試改革・高大連携方策の一環として行われていながら、結局、受験生をふるい分けるための手段としての機能面からしか考えられていないため、肝心な入学後の教育についての視点が落ちたままとなっている。このようなことで国民の英語力が向上すると考えているとしたら、よほど楽観的か基本的な認識すら不足しているかのどちらかであろう。

 (本稿は平成31年に作成)

*****

① 小学校への英語教育導入の契機となった臨教審の第二次答申(昭和61年4月23日)では「現在の外国語教育、
 とくに英語の教育は、長期間の学習にもかかわらず極めて非効率であり、改善する必要がある(p94)」とさ
 れたが、その後30年以上が経過しながら状況が大きく変わっていないのは驚くばかりである。
② 「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等につい
 て(答申)(平成28年12月21日・中央教育審議会)」(以下、本文を含めて「答申」という。」
③ 答申p193
 (もっとも、ここで記載されているのは学習指導要領をどう充実してきたかであって、児童生徒の英語力がど
 う向上したかではないことには留意が必要である。(下記⑩参照))
④ 答申ではこの後で、いくつかの課題を上げ、これらを踏まえた改善事項について記述を行っているが、「さ
 らに」や「一層」「今まで以上に」といった表現が散見されるように、基本的にはこれまでの方向の上に立っ
 ており、数多くの批判を踏まえて、従来の方針を抜本的に見直すというような姿勢は見られない。
⑤ 日本マイクロソフトの元社長の成毛真氏の著書「日本人の9割に英語はいらない(祥伝社)」はこうした状
 況に異を唱え大きな話題となった反面、そこでの推計は妥当性を欠くとの批判もあったのに対し、言語社会学
 者の寺沢拓敬氏が論文(「日本人の9割に英語はいらない」は本当か)でさらに精緻な推計を行っているが、
 その結果では成毛氏の推計を下回り、国民にとって英語が必須となっているは程遠い状況が明らかになって
 いる。
⑥ 2017年の旅券統計によると、日本人のパスポート保有率は約23.5%で先進国では最低水準(英国(イングラン
 ドとウェールズ)76%、カナダ66%、米国42%)。
⑦ 社会の変化を見据えて、建学の精神を見直して、新たな使命(ミッション)の下、育成する人材像の転換を
 図る大学が少なからず生じることは想像に難くないが、その場合には当然、教育目的を始めカリキュラムを含
 む全般的な見直しが不可欠となる。
⑧ 英語をほとんど使うことなく日常生活を送り続ける人はいつの時代でも必ずいる。彼らにとって英語(教育
 )は無用の長物である。そのような人が将来どれ程少なくなるかを示すことができれば、外国語(英語)の重
 要性を肌で感じてもらうことにもなるが(上記⑤参照)、実際には、我が国はパスポート所有者率が先進国中
 最低であることが示すように、海外へ出ることには心理的な障壁が依然として高い。
  また、「2019年版子ども・若者白書」では、日本、韓国、米国、英国、ドイツ、フランス、スウェーデン
 の7か国に済13~29歳の男女計7500人を対象に行った調査結果として、「将来留学したいか」という質問に
 対して日本は53.2%が「思わない」と回答し、7か国中最多である一方、「将来外国に住みたいか」との問い
 に対しても日本は「ずっと自国に住みたい」が7か国中怠惰の42.7%であったことが示されている。それだけ
 国内が安全・安心で魅力的であることの証明だともいえるが、こうした国民意識、特に若者の意識が変わらな
 い中で、外国語がいくら大事だと叫んでも、一部の関係者にとって必要なスキルに過ぎないとみなされてしま
 う
 傾向に変わりはないままとなる。要は言語の問題・重要性だけではないことに留意しなければならない。
⑨ 身を守る場面での言葉や表現などが該当するだろう。かつて、ホームステイ先の庭にいたところ、隣家の住
 民が侵入者と間違えて「Freeze!」と叫んだ意味が分からなかったため日本人学生が射殺された事件があっ
 た。
 こうしたことは㋑㋺の想定次第では国外ではもとより、国内でも遭遇する機会がないとは言えない。また、大
 規模な地震や台風等自然災害時に避難法や基本的な設備等の操作法を理解・説明する場面も念頭に置く必要が
 あろう。
⑩ 民間の団体や外国の機関による試験でも区分やレベルを設定していることから、これらを活用・準拠すれば
 事足れるとの意見があるかもしれない。しかし、それらがどのような基準を設定しようとも各団体や機関の自
 由である。対して、我が国の実情を踏まえて「国が定める<最低基準>」であり、法的拘束力をもつ「基準」
 との性格を持つものであることを踏まえれば、相当の根拠が求められるのは当然であろう。㋑~㋩が不可欠で
 ある所以である。
⑪ ビジネスの場面等では現地まで赴き直接交渉する(電話でやりとりする)には、多くの時間や経費を要す
 る上、時差の影響もあることから、既にメールやWebで様々な情報を入手し、意見交換を行うことが多くな
 っている。これらは今後益々増えていくことを踏まえた検討(「聞く・話す」より「読む・書く」重視)が
 必要となろう。
⑫ 逆にこれだけの検討を経ていないために、「なぜそこまで必要なのか」といった疑問・不信がいつまでも拭
 われずにいる。事実、現時点で㋑と㋺を算定すれば、大半の国民が外国語(英語)を使うことなく生活を行っ
 ていることは明らかであり、そのような状況下で英語の重要性・必要性をいくら訴えても他人事にしか思われ
 ないのは仕方がない。
⑬ あくまで「指導」できるかという観点からの検討であり、児童生徒がどこまで理解できるかは勘案されてい
 ないことに留意する必要がある(後者にも配慮すると内容・水準はさらに制約されたものとなる)。
⑭ 「TOEFL・TOEICと日本人の英語力」(鳥飼玖美子・講談社現代新書P37)。
⑮ 重視している「コミュニケーション能力」自体、単に相手と言葉の交換をする(できる)ことではなく、
 文法などの言語的知識に加え、その知識を実際の場に適した形で運用する能力(単語の選択、表現の工夫等)
 を意味し、これらは文法的能力、社会言語学的能力、談話能力、方略的能力から構成されるという(鳥飼氏前
 掲書p81)。
  つまり、全ての基礎としてその場で何を伝えるべきと考え、相手の意見等をどう判断するかといった論理的
 思考力・判断力・問題解決力が不可欠であり、これにはまず国語力が重要であることは疑いがない。これなし
 では、翻訳機と何ら変わりがない。小学校英語の導入を提言した臨教審第二次答申では「国語力を重視する必
 要がある」ことが述べられているが、両者の関係にどのような検討及び対応が行われてきたか(また、その成
 果は何か)が不明なまま、ただコミュニケーションと叫んでいても効果がないのは当然であり、この点からも
 方針の見直しが求められよう。
⑯ 第2期教育振興基本計画(平成25~29年度)で設定した成果指標について、中・高段階では共に低い達成
 率となっており、この間の対応が不十分であるか、問題があることは明らかとなっているのに、これについて
 の分析・反省が見られない中で新たな導入等が決定されること自体に、強い違和感がある。
⑰ 答申でも「中学年は、生活科の学習が終わり、社会科や理科の学習が始まる(p84)」として「具体的な活動
 や体験を通じて低学年で身につけたことを、より各教科等の特質に応じた学びにつなげていく時期である」の
 で「指導上の配慮が課題となる」としている。さらに、プログラミング教育も導入される。既存教科にすら配
 慮が必要な時期に、これら新たな指導が加わることの影響が少ないはずがない。昭和60年当時、中学校を中
 心に多くの学校が荒れ、児童生徒による事件が多発するなど「教育の荒廃」といわれる状況にあった。その背
 景には「詰め込み」教育があるとされた(反省から教育内容の精選や学校五日制等、いわゆる「ゆとり教育」
 とされる対応が取られたこと)いたことを考えると、今後、同様のことが再発しないと誰が言いきれるだろ
 うか。
⑱ 官邸に設けられた「教育再生実行会議」の第3次報告(平成25年5月)でも「小学校の英語学習の抜本的
 拡充」として「実施学年の早期化」とともに「指導時間増」が前提なく提言されている。
⑲ 既に、50年前(1968年)にP・F・ドラッカーは「断絶の時代」の中で「今や教育者の目標は、学校教育の延長
 ではなく、学校教育の生産性の向上でなければならない。より多く年数を費やすことではなく、より短い期間
 でより十分な知識を得させることを考えるべきである(P357)」と述べているが、①に加えこの点も状況は
 全く変わっていない。
⑳ 「青少年の体験活動等に関する実態調査」(平成26年度・国立青少年機構)及び「自尊感情や自己肯定感
 に関する意識調査・東京都教職員研修センター」
㉑ 「平成28年度全国学力・学習状況調査」からの文部科学省分析結果
㉒ 「中高生の英語学習に関する実態調査2014(2014年3月・ベネッセコーポレーション教育総合研究所)」
  なお、同調査では、高校入学時(高1前半)も急激に数値が上昇しているが、学年によるバラつきが見ら
 れる。
㉓ 答申p88
㉔ 答申p89
㉕ 「どうなる小学校英語(アルクp40)」
㉖ 「幼児期からの人権教育の可能性(教育学研究第62巻第3号1995年9月)」
㉗ 「生まれたときから、肌の色や、出身や、宗教を理由にして、他人を憎む人は誰もいない。人々は学んで他
 人を嫌うようになる。憎しみを学ぶことができるのであれば、愛することを教えることができるだろう。(ネ
 ルソン・マンデラ「自由への長い道」)」
㉘ 「どうなる小学校英語(P3)」
㉙ 2017年小学校英語教科科記念「教育委員会訪問調査報告書」(特定非営利活動法人小学校英語指導者認定
 協議会・平成30年3月・P20~)
㉚ 答申では「外部人材の受け入れを推進する。」と記載されているが、これまで採用が進んでいない中、どう
 進めるかについての具体策については言及がない。また、地域人材に「特別免許状を活用することや、必要に
 応じて…専科指導者として活用する取組も期待される」としているが、教員中心との考えが中心であって、あ
 くまでも可能性・選択肢の一つに過ぎないとの消極的な姿勢が垣間見られる。
㉛ 彼らの教育力については、数々の研究結果から「経済学者の間では教員免許の有無による教員の質の差はか
 なり小さいというのがコンセンサスとなっている(「学力の経済学」ディスカヴァー・トゥエンティワンp156)」という事
 実を踏まえ、具体的な根拠に基づいた上で懸念を表明する必要があろう。
㉜ 昨(平成30)年12月から東海道新幹線では乗務員の肉声による英語での社内アナウンスが行われており、同
 様の対応は私鉄でも見られる。このように外国語に触れられる場が増えることは望ましいが、そこで使われる
 言葉の内容・水準が設定されている教育目標と整合しているかについても確認し、各実施団体と確認・調整を
 行う必要がある(この観点からは、逆に教育目標の内容・水準の適正さが問われることにもなる)。
㉝ 「教育激変(中公新書ラクレP80)」。このため、外交官試験で課されるのは明治以来、英文和訳と和文英
 訳のみであるという(同書P195)。
㉞ 日本経済団体連合会「大学入試に関する経団連の考え方(2020年7月21日)https://www.mext.go.jp/content/20200720-mxt_daigakuc02-000008656_2.pdf
㉟ 同社HP(ただし、入社までにTOEIC800点を取得することが求められている。)
㊱ さらに国家資格である通訳案内士試験でも、4技能は判定していないうえ、英語試験を免除する対象として
 いるのは英検とTOEICであり、さらにTOEICについては技能別の3種類のテストのどれかが基準を超えていれ
 ば可としている。
㊲ 海外での英語の状況を見ると、文法的に明らかに間違った表現や用語を堂々と使って発言している例は数
 多い。こうした状況を踏まえるとスピーキング力の向上のためには判定よりもまず、(少々の文法的な間違い
 があっても)自分の意見をはっきりと述べる度胸と経験の方が重要ではないかと思わざるを得ない。
  実際、英語を話す人は多様であり、外国人の英語については聞く方も鷹揚に構え、内容を理解しようとして
 くれるものであり、これは外国人の話す日本語に対する対応ぶりを考えれば容易に理解できるだろう。
㊳ 既に1971年にOECDは日本の教育政策に関する報告書で「学生が生まれながらにもつ能力を開発すること
 よりも、選抜の方を重視すること」を第一の問題として指摘している(「大学入試の戦後史」中公新書ラク
 レp209)

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