粗末な文科省的論争法

 霞が関の中で文科省は三流官庁と称されて久しい。そう評されるにはそれなりの理由があるが、その中でも大きいものが、「論争に弱いこと」があるのは間違いない。

 予算要求における財務省との交渉はもとより、複雑化・多様化する社会において、一省庁の施策が単独で進められることは稀であり、大抵は他省庁や官邸との相談・調整を経ることになる。文科行政においても、東京五輪におけるスタジアム建設、ギガスクール構想、コロナ感染対策等いくつもの例が直ぐに思い浮かぶ。

 このような場合、それぞれの所掌・権限を踏まえたうえで、論争や交渉が繰り広げられることになるが、文科省はそれらに毎回、同じ方法で臨んだ挙句、 他省庁や官邸に「説得力がない」「この程度しか考えていないのか」と言った印象を与え、最終的に相手の言い分に屈するという大敗を喫して終わる。
 これが何度も繰り返されているのだ。これでは学習能力がない、と言われても仕方がない。

 おそらく、文科省側では都度、入念な準備をした上で論争に臨んでいるつもりだろう。それにもかかわらず、なぜ同じ結果を招いているかについては原因が分からずにいるに違いない。

 このような対応を続けていては、他省庁の主張に負けた挙句、文科行政が他省庁の意向で「蹂躙」される恐れすらある。そこで、本稿では、今後の改善に資するため、文科省における論争法の特徴及びその問題点を指摘しておきたい。

抽象的
 まず、話す内容が抽象的であって論理が噛み合わない。議論の場で使われるのは「必要だ」「重要だ」「べきである」といったレベルの用語が多く、しかも、なぜそう言えるのかの根拠が明らかではない。これでは相手は「そうは思わない」「そうとは限らない」「そうだとは言えない」と答えることで足りる。

 不毛なやり取りの中では、根拠として「審議会等における有識者の意見」や「ある調査結果」が提示されることがあるが、審議会の意見を踏まえているのは他省庁も同様であり全く説得力がない。典型的なのが財務省の「財政審議会」による意見だ。文科省の見解と対立する提言が数多く出されており、これとの水掛け論が毎回繰り広げられている。

 また、資料として提示する調査結果も問題だ。その多くが、ある事業を行うと、それを実施しない場合より望ましい結果が得られたことを示しているが、果たして、その結果は統計的に有意なものか、費用対効果の面から適切と判断できるものか等が明らかでない。これでは「やらないよりもやった方が良い」と言っているのと変わらないし、「これだけの資源(ヒト・金)を投じてこの程度の効果か」と返って疑念を持たれることになる。財政状況が厳しい中でこのような結果が説得力に欠けるのは言うまでもない。この点は文科省も認識しているのだろう。これを率先して提示することはなく、根拠を再三求められた後で漸く取り出すのが通例だからだ。

交渉が成立しない
 意見が対立する場では議論を重ねて最終的な合意に達する必要がある。その際に「駆け引き」が重要な手段となる。例えば、双方の立場に100の開きがある場合、合意に向けてこちらが10進む(妥協する)こととし、その見返りに相手にも同等(以上)の歩み寄りを求める、逆に相手が5だけ近寄ってくるならこちらも同程度進む…こういった過程を経て、最終的に合意点に達する。

 これは様々な交渉の場でよくみられる光景だが、文科省の場合は、相手に歩み寄りを求めるばかりで、自分が動くという発想がない。これでは交渉にならない。しかもその際に語られるのが、相変わらずの「自分達の立場は<重要だ>」「自分達の考えは認められる<べきだ>」という根拠のない主張なのだから相手としては如何ともし難く、膠着状態に陥ることになる。

 結局、相手が精一杯の歩み寄りをしたうえで、これでは交渉にならない/これ以上は時間の無駄だ、と判断して、その地点を合意点とみなすことになる。要するに文科省はそこまで引きずりこまれることになるのだが、その事態に対して有効な対応が取れずにいるのだから情けない。

 (具体例は枚挙に暇がないが、代表的なものとして「義務教育費国家負担制度」を取り上げてみよう。
  同制度の見直しは、小泉政権下で三位一体改革の一環として提起された。
  ここで論点や経過を詳細に述べる余裕はないが、要は

  「義務教育費における国庫負担金を減額(一般財源化)したい」
 との総務省や、知事をはじめとする地方代表の主張に対して、文科省は
  「義務教育は国の存立にかかわる重要な問題なので国が教育責任を負うべきだ。」
 として制度の維持を訴えた訳だ。

  紆余曲折を経て、制度自体は存続させる一方、国の負担率を従来の1/2から1/3とすることで決着を見た。
 この結果からは文科省の主張が通ったように見える。もともと理不尽な要求であったことを踏まえれば、制度
 の根幹が守られたことは大きな成果であったと言えそうだが実はそうではない。文科省の主張はほとんど受け
 入れられなかったのだ。

  文科省は表向きには制度の存続を訴えてはいたが、実は国の負担率の維持こそが主張の中核で、これを一歩
 も譲らなかった。仮に制度の存続が眼目であるなら、負担割合を議題として、具体的な交渉ができたはずだ。
 ひいては、財政状況に応じて自治体側の負担率を変えるという方策等も取れただろうが、そのような議論は
 なく、結局、制度は維持し、負担率を一律1/3に減じるということで政治決着して終わった。

  果たして、文科省はHPなどで制度が維持された意義を大きく取り上げるのみで、主張していた負担率1/2
 が維持できずに終わったことには何も触れていない。これではこれまで負担率を1/2とした必要があったのか
 釈然としないし、これでも地域の実情に応じた教育を維持・推進することは可能ということにもなりかねな
 い。

  しかも「広く地域住民の意向を反映した教育行政を実現する」ための仕組みとして教育委員会制度を採用し
 ていながら、「地域の教育責任を強め、地域の実情に応じた教育を充実できる」という地方代表者の意見に対
 して無回答である一方で、「一般財源になれば義務教育負担分が公共事業などに回るおそれがある」として、
 教育委員会制度の根幹である地方分権制度自体に疑問を呈する主張すら掲載しているのはどういうつもりな
 のか。)

 こうして、相手の主張にはゼロ回答でありながら、自分達の要望・主張には満額回答を求めた挙句、当初の想定から大きく離れた結果の受け入れを余儀なくされるのが通例なのだが、さらに驚くのはこれがさも当然の結果であるかのように振る舞うことだ。自分達の主張が通らずに招いた結果であることを隠すための精一杯の操作なのだろうが、彼我の差を踏まえると、結局、途中の論争・交渉は何だったのか、と思わずにはいられない。

 最近、羽生田文科相が退任の挨拶で、「文科省員は<負け癖>がついている」と語ったそうだが、こうした実態を指摘したものだろう。大臣がそれを指摘せざるを得ない状況にあることを強く認識し、その背景にはこのような発想・論争法があることを踏まえて、早々にその改善に努めないと、この「癖」の解消など到底望み得ないだろう。

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