「オオカミ官庁」には毅然とした対応を

 教育改革として相変わらず様々な事業が行われている。それだけ現下の教育には問題が多いということなのだろうが、果たして本当だろうか。そもそもこれらの事業の根拠とされる審議会の答申等には毎回、
 「変化の激しい社会において、今後の時代を生き抜くには○○の能力が不可欠」
 「現在、抱えている問題を解消することが喫緊の課題であり、それには××に取り組むべき」 
 「これまで行った事業は一定の効果があったと言えるが、問題点もあるので新たに△△に取
  り組む必要がある」
という、似たような表現が繰り返し使用されている。

 これらが根拠も不明なまま、何度も使われるので説得力に欠ける。しかも、それが結局、どのような状況を招いたのか、対応として提示された事業(「環境教育」や「プログラミング教育」・「GIGAスクール構想」…)はどれほど有効で、どのような成果を上げたのか等は一向に明らかでない。

 なお、それらの中には「英語教育」のように、事前に掲げた目標の達成度が明らかにされているものも例外的にはあるが、その数値は残念ながら目標に届いておらず、「掲げた施策は何のために実施したのか」「本当に必要だったのか」との不信感をあおるだけになっている。

 このような、無意味な、同じことの繰り返しはそろそろ止めにさせるべきではないか。これを続けているのは、「大変だ、オオカミが来る!」と何度も嘘をついていた、物語の少年と変わらない。

 イソップ寓話では、少年はこのような日ごろの行いが祟り、本当にオオカミが出た時に誰にも信用されず、助けてもらわなかったことが教訓とされている。

 文科省としてはこれを逆手にとり、自分たちが掲げる構想・事業を信じ続けないと、いざそれが必要となったときにも、理解・利用することができないことになるので、それを信じ続けるべきだと言いたいのかも知れない。

 しかし、ここには大きな矛盾がある。

まず、寓話が語っているのは、少年に対する、日常的に、嘘をつかず、正直に語ることの必要性であり、住民に対して、何度騙されても、少年を信じ続けるべきだ、ということではない。

 そもそも、これでは、文科省の言動は嘘に近いことを自ら認めつつ、それを棚に上げて被害を受けている住民や関係者にさらなる対応を求めていることになるので、論理矛盾だし、こんな理屈は言語道断だろう。

 しかも、本当にオオカミが来た時には、それまで嘘だとされていたことが、真に必要となるというのも、それが果たしていつなのかは全く不明だ。それまでに費やした労力は膨大になるのに、それが考慮されることはない。

 これ自体、毎回、新たな施策を述べながら、それを実施するのに必要な経費や労力については言及せず、実際に対応する自治体や学校に「丸投げ」して、自らは良いことを提示したと自己満足している現状と大差ない。

 寓話でも、少年は住民の苦労や困難を考慮することなく、無駄となる皆の対応ぶりをみて喜んでいたが、それと大差がない。

 このような「オオカミ官庁」の言葉を素直に受け止め、信じることはもう止めることが必要だろう。

 今後は、取り組みや事業を信じ、対応する前には、それらの重要性ではなく、それをどう実行するのか(方策)を確認し、納得することが必要だ。

 そして、これらに対して確たる回答が得られない場合には、具体的対応については保留、ということをするべきで、それこそが児童・生徒をはじめとする関係者を真に配慮した姿勢だろう。

 そもそも、文科省外の組織・機関や職員にとって、文科省は優越的な存在でも、何かを一方的に命じる立場にあるわけではないことを十分に認識し、適切な判断・対応を行うべきことは言うまでもない。

 「おかみ(御上)」や「お役所」という言葉や意識は当然、時代遅れであり捨て去るべきであるが、それにとどまらず、激変する社会においては、文科省に対して真に行うべき対応とは何かを十分に認識し、必要な対応を毅然としてとるべきであり、それが求められる。

 

 ※ 表題に「オオカミ官庁」という語が使われていることから、一見すると、文科省が児童・学生や保護
  者
を襲うオオカミのような恐ろしい官庁、ということを意味していると思ったかもしれないが、上記を
  一読すれば、それとは全く逆の意味であることはお分かり頂けるだろう。 
  「恐ろしい」ということは共通しているかもしれないが、それは「襲う」からではなく、「根拠も効果
  も分からないこと、端的に言えば、意味が分からないこと」を勝手に述べているからなのだ。
   また、オオカミ官庁「は」でなく「には」であることにも誤解なきように願いたい(笑)。

コメント

タイトルとURLをコピーしました