【皆が感じる違和感】
「文部省の研究」(文春新書)という本があります。法律で禁止されている就職斡旋(いわゆる「天下り」)を組織的に実施していたとして文部科学省が社会から厳しい批判にさらされていた中で上梓されましたので、同省の不正や不祥事を詳らかにし、組織の在り方等を糾弾する内容かと思われました。
ところが、「<理想の日本人像>を求めた百五十年」との副題が表すように、我が国の教育史は文部省が理想に向けて努力してきた歴史であるとし、その役割に好意的な評価を行っています。その一方で、こうした「<理想の日本人像>をめぐる議論は…中曽根臨教審以来、空理空論ばかり集積され、なかなか実行に移されてこなかった。本書でもさんざん述べたように、今後重要なのは理念の<実装>である。(①)」との苦言を呈しています。「あとがき」に記された短い言葉ですが、著者の思いがこもっており、分量以上にとても重要な内容をもつ指摘です。
なぜなら、中曽根臨教審(1985年発足)からは既に30年以上が経過しているにも関わらず、文科(部)省はこれほどの間ずっと、実装(政策実現のための人的・物的な資源等の具体的手段や方策)を欠いた理念―それだけではおよそ官庁が実施すべき政策とは言えず、単なる掛け声・スローガンにしかすぎません―を語るだけで済ませてきていると非難されていることを意味するからです。こんなことを続けているのでは「二流官庁」どころか、行政機関としての役割・機能すら果たしていないと言われても仕方がないでしょう。
こうした批判が「文科省の理解者・応援団」のような人物からも発せられているように、同様の見方をする人は少なくありません。例えば、東大在学中に司法試験に合格した上、同大学を首席で卒業した後、財務省を経て弁護士になったと話題になった山口真由氏は、財務省在職当時に感じた文部科学省(員)の印象を次のように語っています。
「(私自身は文学部を選ばなかったものの、文学部の学生には好感を覚えていました。なにしろ彼らは、私とは全く違った存在です。私にはない美点と欠点があります。彼らは純粋で、理想主義的で、そして、すこし現実離れしたあやうさがあるのです。)
実は、後に財務省に入省して、文部科学省の人たちに東大文学部に近い育ちのよさを感じました。性格にゆがみがなく、素直さがある。理想主義的でもあり、ほかの省庁と比較するとロマンティストが多かったような気がします。…どこか現実社会から遊離している省庁だな、と思いました。(②)」
財務省に入省後間もなく、各省について特段の先入観・偏見もない中での率直な印象を語ったものとして貴重な発言です。ここにも現実と乖離した「理想」(ばかり)を追う文科省員の姿が伺えます。
こうした指摘を踏まえて、改めて文科省職員の言動を思い起こして、それらが「理想主義的」(これは「現実からかい離・無視」し、「抽象的・あいまい」ということも含みます)な考えに由来していると考えてみると、その特徴が良く理解できるように思えます。(およそ一定の規模と歴史をもつ組織がそれぞれ独自の文化を育み、所属する職員がその影響を陰に陽に受けることは当然のことであり、それが組織の一体感や構成員としてのアイデンティティを育むことになるのですからそれ自体は重要なことと言えますが)。
そこで、彼らの言動に特徴的な事項を取り上げ、これを具体的に検証してみましょう。もとより心理学の専門家でもない身で学術的な分析など行えるはずもなく、単に実態を明らかにするに過ぎません。それでも教育政策に携わる人たちの言動をこれまでとは違う観点からとらえることで、そこに共通の特徴をもたらす考え方があることが確認できれば、教育改革に取り組む多くの関係者、ひいてはその影響を受ける保護者や学生たちが教育政策の生まれる背景等を理解し、今後の対応を考える手がかりを得る上で役に立つことはあるでしょう。それ自体意義あることではないかと思います。
【あいまい・抽象的な語で説明し、具体的対応を求める】
文科省(員)の言動を見てまず気が付くのが、同様に語義があいまいな語が頻繁に使われることです。ここにまず「理想」主義の影響を見ることができます。理想とは「行為・性質・状態などに関して、考え得る最高の状態(広辞苑)」とされ、誰もが認めるものであることが求められるのに、具体的であればあるほど、個々について批判・反対する者を増すことになるのですから当然でしょう。
例えば、教育改革を実現するためには多くの人々の理解と協力を得る必要がありますが、そのために「新しい学力観」や「生きる力」、「確かな学力」、「豊かな心」等の言葉が用いられます。その中の「生きる力」についてみると、その内容は
・ 基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学
び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力
・ 自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人
間性
・ たくましく生きるための健康や体力 など
であるとされます。(これらは、新学習指導要領の制定に合わせて、文科省が平成19年に全教員に配布したパンフレットに記載されており、その内容は今でも文科省HPで確認することができます(③))。
一見、なるほどと思い読み過ごしてしまいますが、少し立ち止まって考えてみると、
・ 「基礎・基本」、「確実に」、「自ら学び」、「よりよく」、「たくましく」…という
のはどの程度のことをいい、それらが身に付いたことをどう判定するのか
・ 「生きる力」が身に付くと子どもは「何が、どれだけ」できるようになるのか(現状と
どれだけの(有意な)違いが生じるのか)
と言ったことが分からないままであることに気づきます。
しかもそれらを具体的に説明したものはどこにもないのです。教育改革・施策にはこのような「文学的な」語が広く用いられています。さらに、これらは目標ですから、その具体的内容・達成水準がはっきりしないと実現に向けた方策や資源といった手段(実装)の種類や量も決まらないはずです。
ところが、文科省がこうしたあいまいな表現・用語を施策目標・説明用語として使用し続け、それで済ませているために、実際に改革に取り組む現場では既存の体制・資源で新たな要求に取り組まざるを得なくなっています。「ブラック」とも揶揄される教員の多忙さの要因の一つがここにあるのです。
しかし、対応を要求する側が、現実から離れた理想を語るばかりで、これと言った対策を取らないままです。これでは「なかなか実行に移されてこなかった」のも当然でしょう。こうした状況を改める必要があるのは当然であり、そのためにはまず、各現場においてこれらの言葉が元々あいまいなものであることを認識し、その上で、実施のために不可欠な内容・程度をしっかりと確認し理解・納得することであり、もしそれらが出来ない場合は、充分な説明をはっきりと求めることが必要です。それが「空理空論」から脱する第一歩となるに違いありません。
【成果を明らかにしない・問わない】
文科省では様々な取組が行われていますが、それらの成果を客観的に評価し公表することはほとんどありません。
教育に関する取組は効果が現れるまで相当の期間が必要となります。従って、開始から数年が経っただけの事業では顕著な成果が見られなくても当然と見なされるのが普通です。ところが、学校五日制や総合的な学習の時間、教員免許更新制等、導入から十年以上が経過している取組についても状況は変わりません。ほとんどの施策がいわば「やりっ放し」であり、具体的な検証もないのが通常です。評価が求められても形式的に「成果があった」と記載するだけです。
その一方で、別の問題が指摘されて新しい対策が求められます。通常、新しい施策は事前に審議会等有識者による会議で検討が行われ、当該施策が必要な根拠等が答申や報告書に纏められます。そこでも「現行施策は概ね成果を挙げていると言えるが、問題点も見られるため、新規施策が必要である」といった程度の表現が行われるに過ぎません。
税金をはじめ、人的・物的・時間的諸資源を投入して実施されている現行施策が全体として「どれだけの」成果を挙げ、それは所期の目的を達しているのか、一方で現行施策が実施されている中で「どの程度の、どのような」問題が「なぜ」残り(新たに生じ)、それらの解決に新規施策が「なぜ、どの程度」有効なのか、といったことはほとんど明らかにされないのです。
こうしたことが行われないのは、評価を行うことは「理想」として掲げてきた現行施策の価値を疑い、それを貶めることになるので避けているからだと理解した方が良さそうです。こうした点をマスコミを始め関係者はこれまでほとんど問題にしていません。なぜでしょう。誰もが現状に問題があることを認めている中で、それに対応するために次々と新しい施策-いずれも「理想的」なものですから正面から反論することが難しく、期待を抱かせるものである-が打ち出されているため、そちらが注目されるばかりで、現行施策の成果は過去のものとして関心は薄くならざるを得ないというのが実情のようです。しかし、これでは新規施策の正当性・必要性(根拠)はあやふやで良いと認めていることになります。それで良いはずがないのであれば取るべき方策は明らかです。現行施策の成果・達成度をしっかりと点検・把握するべきです。
【議論にデータ・根拠がない】
上記の施策の成果に関するものを始め、教育政策全体が根拠となるデータを欠いているとの指摘は数多く、特に、刈谷剛彦氏は以前から警鐘を鳴らし続けています(ところが、肝心の文科省がこれらにこれに応える姿勢を見せていません。このような対応を続けられれば、常人であれば、無力感に苛まれるか不信感を抱き、関与を取りやめてもおかしくありません。
ところが同氏の言動に変化はありません。現状への危機感とともに改善への強い期待感を持ち続けているからでしょう。その姿勢には敬意を表せざるを得ません)。最近では「思い込みで語られてきた教育に科学的根拠が決着をつける」とした「学力の経済学(④)」や「教育を経済学から見直す」とした「学歴社会の法則(⑤)」等の関連書籍も数多く刊行されています。
実は、この点は文科省でも認識していたようで、学力低下が社会的な問題とされた当時に、刈谷氏と対談した文科省の寺脇研・政策課長(当時)は「文部省のデータ分析の不十分さ、これは文部省としても、カリキュラムセンターをつくろうじゃないか、国立教育研究所と初等中等教育局が連携して、きちんとそういうデータを調査・分析しようじゃないか、となっており、やらないといけない。」「文部省側の言い分としては、確かにデータもないけど、<今までの教育システムではまずい>ということについては それはだいたいコンセンサスが得られているのじゃないかと思います。」(⑥)と発言しているのです。ところが、それから二十年ほどが経過するにもかかわらず、状況は変わりません(⑦)。
なるほど、最近、文科省から公表される答申や報告書の多くには、参考資料として膨大な数値等が付されていますが、その内容は「こうなっている」という現状を示すものが大半であり、現状までの経過(既存施策の成果)「なぜそうなったのか」や、今後の見通し(新規施策の効果)「どうなるのか」等に関するものはほとんど見られません()。経済学的に言えば、ストックばかりでフローが不明なのです。重要なのは「理想」とする施策を掲げることであり、それに「だいたいコンセンサスが得られている」以上、データを集める「必要がない」と考えているのではないかとさえ思えるのです。
【経費の計算ができない・しない】
文科省では「理想的」(と思っている)施策を立案している者が、それを実施するためには何が、どれだけ必要であり、経費は総額いくらかかるのか分かっていない、と言ったら驚くでしょう。ところが、答申や報告書を纏め、それらに基づいて新規施策を立案する「キャリア」と言われる職員が当該施策を実施するために必要な資源の内容や量を整理し、事業予算として組み立てるといった作業はしません。それらは「ノンキャリア」と言われる職員が行っているのです。
従って、キャリア職員は自分が立案した施策を実施するために必要な事項や額が分かりません。ある施策を実施するのに必要な予算を獲得するためには、まず財務省と折衝することが必要です(そこで認められたものが政府予算として計上され、国会での審議を経ることになります)が、文科省ではキャリアは予算を必要とする施策の意義や必要性を説明するだけで(しかも、その内容は山口氏が指摘するように、現実離れしたものと見なされています)までであり、具体的な項目・額はノンキャリアが代わって説明します。
霞が関の中央官庁の中でもこのような役割分担を行っているのは文科省だけであり、他の省庁では施策を立案したキャリア職員が、予算要求の内容についても説明を行っています。なぜ、こうした役割分担が行われているのでしょう。そこにもデータに対する考え同様、キャリア職員の関心・責務は「理想」を掲げることにこそあり、経費の積算などという現実的なことには考えが及ばない・考えを及ばす必要がないという認識があることが垣間見られるのです。
【ビルド&ビルドを追求するだけ】
国のみならず、地方においても財政不如意な状況の下で様々な課題への対応が求められているため、どれほど重要と認識される取組であっても、そこに割ける資源量には限界があり、新しい取組をするには既存の取組を相当程度スクラップすることが不可欠とされています。こうしてバランスが確保されています。
ところが、文科省は新しい施策を提示するだけで、それと引き換えにどの取組をどの程度軽減・縮小、又は廃止するかについて言及・提案することはほとんどありません。理想を掲げて提示し、正面からの反対がない新たな施策の実施を求めるのは当然として、既存施策も過去に理想として掲げたものであり簡単に削れるものではない、という考えが伺えます。例えば、審議会の答申等、今後、必要とされる施策について検討した内容を取りまとめた報告書には必ず、従来の施策を「一層」「さらに」充実するよう求める記述が併記されています。
それでいて、新規施策はもとより、これら既存施策の充実のために必要な資源(人・モノ・金)についてほとんど言及がありません。結果、施策を具体的に実施する教育委員会や学校において、教職員数や財源に限りがある中で負担ばかりが増し、対応に苦慮するという事態を余儀なくされており、こうしたことが続いているのは大きな問題です。
【交渉とは無縁・苦手】
理想とは「行為・性質・状態などに関して、考え得る最高の状態(広辞苑)」であるが故に、わざわざその根拠やデータを示す必要も成果を問う必要もないという考えがあるらしいことは上述しましたが、それは議論の仕方にも現れます。即ち、文科省員は自分たちの(最高の)考えに拘泥し、議論を通じて説得や妥協を図ろうとしない傾向があるのです。
このため「オールオアナッシング」型の議論になりがちです。こうした言動が冒頭の「空理空論」や「ロマンティスト」と評価されることになるのでしょう。そして、相手の主張を認めないということは、相手の立場に立って考えないということですから、逆に言えば相手の罠に陥り易いということでもあります。事実、民主党政権下で猛威を振るった事業仕分けにおいて、対象となる事業を担当する省庁との質疑項目等は事務局が予め用意していたことが判明しましたが、当の事務局によると
「公開の仕分けの場では、最後に導きたい結論(大抵は当該事業の廃止や縮小)に導くため
に、質疑をどういう流れで進めるかを考えていた。
文科省との応答では、こちらが期待した通りに議事が進むので楽だった」
とのことでした。
「質疑の中には、こちらの想定通りの答えが出ることは難しいと覚悟した質問もいくつか挿
入していたが、それらに対してさえ、こちらが意図した答えを進んでしてくれるので驚き
ながら、内心笑っていた。質問意図を考えていなかったのだろう。」
とも言うのです。
他方、経産省などの対応には
「えっ、そういう答えがあったのか。うまく逃げられたなあ。」
と裏をかかれて、慌てる場面が少なくなかったとのことでした。非常に示唆に富む内容ではないでしょうか(⑧)。
【現場を知らない・関心がない】
関心が理想を掲げることに集中すればするほど、対義語である現実への対応が疎かになるのは必然です。そのことを如実に現しているのが、現場に対する関心の薄さです。教育委員会や大学等、各地から講演や説明を求められたり、当地で開催される行事や式典に参加する機会は少なくないのですが、文科省員には当該業務が終わるとすぐに現地を離れ、帰途に着く方が多いのです。せっかく東京を離れて、具体的な教育活動が行われている現場を見る機会を得ているにもかかわらずそれを生かしていません。
せっかくの機会を利用して、自ら地元の施設設備や教育活動の実際等を視察したいと要望することはほとんどないだけでなく、先方から「時間があれば当地・当校の特色である○○をご覧頂きたい。」といった提案・照会があってもそれを断わっているのが普通です。その際にはよく「他の業務があるので…」という理由が使われるのですが、実は現場にはそれほどの関心がない、というのが本心なのでしょう。
このような現場・地方への関心の薄さは、地元の人たちもよく目にしています(実は、感心が薄いというより、そこに「丸投げ」して済ませている、というのが実情です。そして、これについては、「文部科学省の解剖(東信堂)」等に詳しいですので、別の機会に紹介します)。
例えば、ある自治体や大学が先進的な取組を行う場合に、関連行事を開催し、そこに文科省からの講演・説明を組み込もうとすることはよくあります。主催者側としては、自分たちの取組に国からのいわばお墨付きをもらいたい(箔をつけたい)という意向が少なからずあるために、文科省からの出席を求めているわけです。従って、依頼に応えた以上、呼ばれた側にはそのような事情をある程度踏まえた対応が求められるのは当然です。
ところが彼らがそうした対応を取ることはほとんどありません。席上、文科省員からの発言は関連する施策の経緯や意義といった一般的な内容に終始するものばかりです。しかも、それらの多くは既に通知文やパンフレット・HP等で伝えられています。
その一方、肝心の地元の取組については「国としても重要な取組と認識している。期待している」といった程度の言及があるだけです。これではわざわざ東京から呼んだ甲斐がないとの感じを与えるうえ、そもそも地元の取組についてちゃんと理解しているのか、との疑念すら生じさせるに違いありません。
このように、集まっている地元の人たちを喜ばせるという配慮などほとんどありませんから、ましてやその場の雰囲気に応じたアレンジを行うことなど望むべくもありません。文科省出身の国会議員が少ない理由の一つにこのような点もあるのでしょう。
これに比べると、他省庁の対応は違います。それが端的に現れた事例をご紹介します。
ある市で市民向けの講演会が開催されました。それは市長が企画・主導し、全国に先駆けて実施する事業を紹介するためのものでした。その市長はアイデアマンとして霞が関でも知られ、各省の幹部と直接、具体的な相談を行っている方です。福祉と教育の分野に関係する事業であることから、市長の要請を受けて、講演会には厚生労働省と文部科学省からも幹部職員が出席したのですが、厚生労働省からは局長が出席したのに対し、文部科学省からの出席者は課長でした。およそ役所の常識としては「横並び」を重視しますから、一方が局長を派遣しているのであれば、他方もレベルを合わせて局長を出席させようとするのが通常の判断です。それができなかったのは文科省側の局長に相当の事情があったのでしょう。ただ、腑に落ちないのは局長が出席できないのであれば、次の職位である審議官が出席するはずなのに、実際には課長だったことです。この対応から当該事業に対する文部科学省の認識・判断が伺われますから、市長の思いはどのようなものだったでしょう。
講演会はまず市長の挨拶から始まりました。自らの取組や実績を誇る内容で、自信に満ちたものでした。
次が文科省課長の説明ですが、まず、他省からの出席が局長であることは参加者にも明白なのに、自分だけ課長となったことについての説明・弁解すらありません。
そして、事前に市長が高らかに事業の意義を述べたのに、本事業について言及することはなく、代わりにこれと関連する国の施策を淡々と述べるだけでした。これでは何のために来たのか分かりませんが、彼としては「(忙しい中)わざわざ来てやった」という気持ちが本心でしょう。このような態度・内心でいることは皆が直ぐに感じ取ります。説明後に会場からの拍手がまばらだったのも仕方がないでしょう。
この後に厚労省の局長が登壇したのですが様子は全く違います。市長は各省から重要な存在として認識されている、と霞が関での活躍ぶりについて述べた後で、自分(局長)も色々と市長と相談し知恵を頂いているが、今回の事業も国が進めている取組が問題を抱えその解消に苦慮している中にあって、それを解決する内容を含み、それを国に先駆けて取り組むものであるとして、具体例を挙げながらその意義を紹介し大きく称えたのです。
会場から大きな拍手が送られたのも当然です。その後、遅れて到着した知事が登壇しました。知事も、冒頭から、県内で市長が如何に優れた存在であるか、自分(知事)がどれだけ頼りにしているかをエピソードも交えながら縷々述べていました。その内容には当の市長も何度か苦笑する程でした。そして、それほど優れた市長から要請があったのに遅参したことは大変申し訳なく思っていると繰り返し詫びる一方、この市長が企画し、実施する本事業は間違いなく、県内のみならず全国でも先導的なもので大きな注目を浴びるものなので市民は誇りをもってもらいたい、自分(知事)も全面的に協力する、として挨拶を終えました。
局長を超える満場の拍手でした。文科省課長と両者とで市長や市民に与えた印象の差がどれ程大きいかは言うまでもありません。これは一例にすぎませんが、同様なことは各地で散見される背景にあるのが現地・現場への無関心です。このような意識のもとで各自治体での主体的・自律的な運営を基礎とする教育委員会制度が行われていることを考えると、それが効率的に機能しているのかに疑問を抱かざるを得ません。
【退職後に文句を言う】
旧文部省は英語名称では「教育・科学・スポーツ・文化」省を意味しました(省庁再編後、科学が科学技術に変更されて、現在の文部科学省となる)。海外では複数の官庁が担当するほどの範囲・内容・機能を一つの役所が担っており、その所掌範囲の広さは世界的にも類例を見ないほどです。これだけ広い分野を一つの組織で扱っているため、組織としての効率化を図る上でも、分野間に軽重が生ずるのは止むを得ません。通常の組織でも「花形」といわれる部門がある反面、「日の当たらない」部門が生じます。
旧文部省では初等中等教育及び高等教育を扱う部局(文部科学省ではこれに科学技術・学術政策局)が「花形」とされています。他方、それ以外の部門は「社・体・文」と総称され、一段低く扱われてきました。ところが、これら花形部局に関係する外部団体は少ないため、勢い、多くの幹部が引退後には青少年団体や博物館・美術館と言った、「社・体・文」に関係する組織に「天下って」きました。そこで奇妙なことが生じます。彼らの多くが「社・体・文」の扱いの低さについての批判(予算が少ない・削られる、要望が後回しにされる等)を口にするのです。
現役時代には皆、これら批判の元となる「花形」重視の判断・行動を続けてきたのにも関わらず、です。実は、学校現場でも同様のことが散見されます。地方では教育委員会の幹部や公立学校の校長を退職した後に、地元の私立学校の校長等に就任される方がいますが、彼らの中に「私立学校に対する対応・認識が低い、公教育は不十分だ」と不満を述べる方が少なくないのです。
自治体では私立学校を所管しているのは教育委員会ではなく、首長部局であるという事情があるにせよ、同じ自治体内にある教育機関であるにもかかわらず、私立学校に対して現役時代はほとんど関心を寄せずにいたのですから、自分がそこに身を置いてから何を言っても空しく響くばかりです。これらのことから、教育行政にかかわる人達は国・地方を問わず、共通して自分の外の世界に関心が薄いことが分かります。「井の中の蛙」とされる所以です。
話を文部省職員に戻します。彼ら退職幹部職員の言動は、現場に直接身を置くことで初めて省内の理想とのギャップに気づいた驚きゆえのものでしょう。実際、最近では、退職後、大学教員や私立学校法人の役員として再就職するケースも増えてきましたが、それに伴い、彼らから「花形」である初中教育や高等教育に対する批判の声が上がり始めています。いよいよ本丸にも内輪から火が付き始めているのです。しかし、当の省内ではこうした外部の声に関心がないのですから、事態は変わらないままでしょう。それこそが最大の問題なのです。
【実は自分たちも信じていない―建前と本音】
このように理想を掲げ、その実施(実現ではない)を現場に求めている文部科学省員ですが、実は、掲げた理想はあくまでも理想であり、建前であって、本音では自分たちには関係ないと思っているようです。
なぜなら、公立学校での教育の充実を叫び、改訂した学習指導要領に基づく教育内容の改善を現場に求める一方で、公教育を信頼していないため、自分の子を私立に通わせていたり、私立に進学させようとして塾に積極的に通わせている者や、大学改革の重要性を訴えながら幹部として派遣された大学では改革の音頭を取らず、次の異動まで「大過なく」過ごすことを旨としている者などが決して例外ではなく、数多く存在しているからです。根拠に乏しい理想の限界を自分たちも感じているのでしょう。その意味ではまだ健全といえますが、それが組織として繁栄されるまでには至っていません。
ところが、こうした姿・実態を国民は既に感じているのです。次々と打ち出される教育政策の大半が国民の関心を呼ぶこともなく、実施されています。時々、新聞紙上に掲載される政策への反論なども一部の関係者によるものに過ぎず、直接の影響を受ける子供たちや保護者が大きな声を上げるということはほとんどありません。立案する側にとっては幸いでしょうが、国民が政策目的や効果に疑いの目を向けていることの現れに他なりません。さらに、こうした状況を背景に「学力の経済学」(ディスカバー・トゥエンティワン)を始め、教育経済学の立場から教育政策の根拠・成果に数多くの指摘が行われてきており、それが傾向に一層拍車をかけています。
【私たちに求められるもの】
このように文科省職員に特徴的な言動を並べてみると、それらが冒頭に指摘された理想主義・抽象性に基づくものであることが良く分かります。我が国の教育政策の背景を考える上で一つの重要な視点です。しかし、どうやらこれは文科省(員)だけに限ったことではないようです。先に地方教育関係者との共通点を掲げましたが、どうやら、国民全体に共通する傾向との指摘があります。刈谷剛彦氏によれば「教育をめぐる議論には共通する特有のスタイルがある。あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判する。批判そのものには誰も異論はない。前提となるあるべき教育の理想には、だれも正面からは反対できない崇高な―抽象的な―価値が含まれている。
一方、そうした教育の理想を掲げていれば、現実的な問題をどう解決するか、その過程でいかなる副作用が生じるかについての構造的把握を欠いたままでも、私たちは教育について多くを語ることができる(⑨)」と二十年以上前に指摘しています。また、岡本薫氏も「日本では、教育改革に関する論議において、ほとんどの人が「具体的な目標」を提示しておらず、「曖昧な目標」や「方向性」のみを掲げるに止まっている。これらは「政策目標」とは言えず、強いて言えば単なる「スローガン」に過ぎない(⑩)」と指摘しています(本稿の考え方の多くは同書を参考にしています)。
だからこそ、文科省によって「実装なき理念」ばかりが語られていてもそれが問題視されることがないのでしょう。だからと言って、そのまま済ます訳にはいきません。「人生100年時代」を迎え、AIによる産業構造の変化が迫っている中、人々には従来とは全く異なる知識・技能・能力が求められます。教育の意義・重要性がこれまでになく高まっていることは間違いありませんし、教育がこれからの社会を決めるといっても過言ではないのです。同時に、これまでのような考え方・態度に基づく政策では変化に対応できないことも明らかです。猶予はありません。今後の教育政策について、ここで明らかにした内容を念頭に置きながら、その背景や根拠・効果等を検証することが我々に早急に求められているのです。
(注)
①辻田真佐憲「文部省の研究」文春新書p258
②山口真由「いいエリート、わるいエリート」新潮新書p61
③http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-
cs/pamphlet/__icsFiles/afieldfile/2010/09/08/1234786_3.pdf
④中室牧子「学力の経済学」ディスカバー・トゥエンティワン
⑤荒井一博「学歴社会の法則」光文社新書
⑥朝日新聞社<論座>1999年10月号
⑦確かに、「国立教育研究所」は「平成13年1月、中央省庁等の再編に併せ、
教育に関する政策の企画立案及び推進に資する研究機関としての役割・性格を
より強化するため、従来の研究組織の見直し・再編を行うとともに、行政と
一体となった専門的な調査研究及び助言・支援機能の充実を図るため、新たに
教育課程研究センター及び生徒指導研究センターを設置するなど、大幅な改組・
再編を行い、総合的な政策研究機関として、名称も<国立教育政策研究所>と
改め(同研究所HP)」られました。ところが、その活動は全国学力調査や
PISAといったテスト「事業」を実施するのが主となり、施策に反映される
「政策研究」が充分に行われていないのが実情です。また、従来から初等中等
教育の改善が問題とされていながら、国立教員養成系大学・学部の附属校が
機能していません。
これらの学校は本来、通常の授業に加えて、現行学習指導要領を超えた・
外れた内容の教育を行い、その結果を次回改訂に活かすための実験校としての
機能を担っており、それゆえ、児童生徒には当該学習負担に堪えられる資質・
能力が求められるとして、いわゆるエリート層を選抜する試験を行う必要が
あるとされてきたのですが、現状ではこうした実験的な取組はほとんど
行われず、一般の公立校同様の現行指導要領の枠内での取組に止まります。
即ち、今後必要とされている新たな教育内容・方法が具体的にどういう効果を
もたらすのかについての知見を提供することなく、エリート選抜だけは実施
し続けているという有様ですから在り方が問題視されるのも当然です。
⑧義務教育国庫負担制度について、廃止を求める声に対して、文科省はひたすら
現状維持を叫ぶばかりで条件交渉を行うことはありませんでした。結局、
負担率を二分の一から三分の一にすることで制度維持が図られることになり
ました。本来は負担率維持が不可欠であったはずが、HPに掲載されている
文書(※)では、結論は中教審での議論とはことなるが、政治的判断によるもの
であるとしつつ、制度が維持されたことが重要である、と論点が移っています。
あれだけ維持が必要とされながら変更された負担率の妥当性については一切
言及がありません。また、変更後の問題を取り上げるなどによって、負担率を
戻そうとする動きは全く見られないのは奇異にさえ映ります。
※http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpba200501/002/002/topics01.htm
⑨刈谷剛彦「大衆教育社会のゆくえ」中公新書p215⑩岡本薫「日本を滅ぼす教育論議」
講談社現代新書p93

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